和歌山県田辺市の田辺湾に、神島(かしま)という小さな無人島があります。
この島は、博物学者南方熊楠ゆかりの地として知られています。明治の終わり、神社の統合政策「神社合祀」によって各地の鎮守の森が失われていくなか、熊楠が反対の声を上げ、守ろうとした森のひとつが神島でした。
この記事では、その歴史を順にたどります。さらに詳しく知りたい方には、後藤伸さんの『熊楠の森-神島』がおすすめです。
南方熊楠ゆかりの地・神島とは?

神島は、田辺湾の東岸沖に浮かぶ面積約3ヘクタールの無人島です。干潮時につながる2つの島からなり、大きい方を「おやま」、小さい方を「こやま」と呼びます。最も近い陸地(新庄町鳥ノ巣)までは500mに満たない距離です。
この島には古くから「神島明神森」があります。社殿を持たず、森そのものを御神体として祀る「神森」の形です。
江戸時代の大庄屋文書『万代記』には、17世紀半ばにはすでに神が祀られた森があったこと、19世紀初めには、古木の由来を知る人はいないものの、神の木として村人が畏れて伐採を控えていたことが記されています。
斧が入らなかったこの森は、魚が集まる魚つき林としても知られ、田辺湾を守る島として漁民の信仰を集めてきました。
※三重県にも「神島」がありますが、この記事で紹介するのは和歌山県田辺市の神島です。
南方熊楠が神島に惹かれた理由

和歌山県出身の熊楠は、19歳で渡米し、アメリカやイギリスで植物や菌類を研究しました。帰国後は和歌山を拠点に、粘菌などの調査を続けています。
熊楠が初めて神島に渡ったのは1902年6月1日。ただしこの日は二日酔いで、思うように調査できなかったそうです。同年8月9日に再訪し、蚊に刺されながらハカマカズラやハマボウなどを採集しました。
熊楠は、人の手がほとんど入らなかったことで、他の地域では姿を消した生物がこの島に残っていると考えました。海岸ぎりぎりまで木が茂る島は紀州沿岸でも他にないとし、景色も「遠近の眺望絶佳」と絶賛しています。
神社合祀とは?鎮守の森が失われた背景

1906年ごろから、全国で神社合祀が進められました。一つの町村に神社を原則一社にまとめる政策で、神社の維持管理の効率化や財政基盤の安定が目的とされています。
しかしその結果、各地で鎮守の森が伐採され、地域に根付いた信仰や自然環境が失われる事態が相次ぎました。
熊楠は神社合祀に反対し、神島の森を守った

神島でも1908(明治41)年に合祀が行われ、神島神社がなくなります。守られてきた神林は、伐採の危機にさらされました。
1911(明治44)年には、島の木を伐って売却しようとする動きが起こります。これを知った熊楠は、神島の自然と学術的な価値を訴えて保存を働きかけました。伐採が漁業に悪影響を及ぼすこと、ハカマカズラの保護が重要であることを説いて新庄村長を説得し、村議会は伐採中止を決議、代金も払い戻されました。村民も熊楠に協力して保存に動いたといいます。
翌1912(明治45)年、神島は保安林に指定され、森は伐採から守られることになります。
ただし、この時点で「こやま」の伐採はすでに行われていました。
昭和天皇の行幸とキャラメルの箱
1929(昭和4)年6月1日、神島に昭和天皇が行幸されました。熊楠は森を案内し、御召艦「長門」の艦上で、田辺湾の粘菌や海中生物について説明しています。採集した標本も献上しました。
このとき標本を入れていたのは、桐の箱ではなくミルクキャラメルのボール箱でした。昭和天皇は後に、このことを「南方には面白いことがあったよ」と振り返ったと伝えられています。
翌1930(昭和5)年には行幸記念碑が建てられ、熊楠の歌が刻まれました。同年に神島は和歌山県の天然記念物、1935(昭和10)年には国の天然記念物に指定されています。保安林、県、国と、保護が段階的に強化されていきました。
1962(昭和37)年に昭和天皇が再び南紀を訪れた際には、雨にけむる神島を見て熊楠を思う歌を詠まれています。
神島の自然と、いま抱える課題

神島は全島が照葉樹林に覆われ、ホルトノキ、クスノキ、ヤブツバキ、タブノキなどが茂ります。ハカマカズラやテイカカズラといったつる植物も多く、南国のような雰囲気です。
生き物も特徴的で、コスジギセル、カシマセスジアカムカデ、カシマイボテカニムシなど、島の名を冠した生き物が知られています。粘菌類の面でも重要な場所です。
一方で、1990年代以降はウミウやカワウの大群が飛来し、フンによる樹木の枯死が進みました。ドブネズミの増加など新たな問題もあり、田辺市や研究者による保全の取り組みが続いています。
なお、神島は自然保護のため、許可のない上陸が認められていません。
神島をもっと知りたい人へ おすすめ本『熊楠の森-神島』
神島についてさらに詳しく知りたくなった方には、『熊楠の森―神島(かしま)』(後藤伸/玉井済夫/中瀬喜陽 著、農山漁村文化協会、2011年2月発売、2,200円[本体2,000円])がおすすめです。
熊楠が必死に守った伝説の島から、森の原形や先人の知恵が見えてくる一冊です。熊楠が最後に残した原始の森・神島は、その後、厳重に保護されてきたにもかかわらず、わずか半世紀で大きく姿を変えてしまいました。本書は、その謎に迫っています。
前半では、熊楠の闘いが取り上げられます。魚つき林とは何か、明治の「神殺し」とも呼ばれる神社合祀とは何だったのか、そして熊楠と神の森・神島の関わりが語られます。
続いて、熊楠から半世紀の間に神島がどう変わったのかが扱われます。神島の照葉樹林や森の原形を探りながら、神の森がなぜ激変したのか、神島の森を特徴づける植物は何かをたどっていきます。
さらに、ウの大群の襲来による糞害との闘いが登場します。大量の糞で島がどうなったのかに加え、自然の自己回復力という「かすかな光明」や、ほかの島でも深刻な糞害があることにも触れられています。
最後は、一度の台風で壊滅的な被害を受けた神島について、その真因を探ります。被害を拡大させた条件を確かめ、過ちを繰り返さないために何が必要かを考える内容です。
著者の後藤伸さんは、和歌山県生まれ。中学・高校の教諭を経て、田辺市文化財審議会委員長や南方熊楠邸保全顕彰会常任委員などを歴任し、紀伊半島南部の生態系の解明と保全に尽力しました。熊楠の膨大な生物標本の整理・復元も手がけ、2003年に亡くなった同年、第13回南方熊楠賞特別賞を受賞しています。
共著者の玉井済夫さんは、両生類・は虫類の研究を続けながら、大塔山系、神島、天神崎の調査・保全に尽力してきた方です。中瀬喜陽さんは、田辺市文化財審議会委員長、南方熊楠顕彰館館長を務めています。
※著者紹介は書籍刊行当時の情報です。


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