地球の気候を支える巨大な海流のひとつに、大西洋子午面循環、略してAMOCがあります。これは大西洋を南北に縦断するコンベヤーベルトのような巨大な海流システムで、熱帯の暖かい海水をヨーロッパへ運ぶ役割を担っています。ロンドンやパリがカナダの同じ緯度の都市よりもはるかに温暖なのは、このAMOCのおかげです。ところが近年、地球温暖化によってこのAMOCが弱体化、あるいは完全に崩壊するかもしれないという懸念が高まっています。崩壊が起きればヨーロッパの気候は激変し、世界全体にも深刻な影響が出ます。そしてひとたび崩壊すると、事実上元に戻せない可能性があります。
そうした中、オランダ・ユトレヒト大学の研究者たちは、2026年4月にScience Advancesに発表した論文で、アラスカとロシアの間のベーリング海峡を人工的なダムで塞ぐという大胆なアイデアを提案しました。本記事はこの一見突拍子もないようで、実は科学的に真剣に検討されている構想について詳しく解説しています。
- AMOCは大西洋を循環する巨大な海流で、地球温暖化による淡水流入で崩壊する恐れがあり、崩壊するとヨーロッパの急激な寒冷化や世界規模の気候激変が起きる。
- オランダの研究チームが、ベーリング海峡をダムで封鎖することでAMOC崩壊を防げる可能性を示した。ただし効果はタイミングが肝心で、AMOCがまだ強いうちに建設しなければ逆効果になる。
- ダム建設は現代の土木技術で実現可能な規模だが、生態系への影響や未知の気候変化リスクもあり、論文は二酸化炭素削減が本筋であり、あくまで最後の手段と位置づけている。
AMOCはなぜ崩壊するのか

まず、AMOCがどのように動いているのかを簡単に説明します。熱帯の暖かく塩分の高い海水は、大西洋を北へ流れています。そして、ヨーロッパ近海の寒い海域に達すると、冷たい空気によって海水が冷やされます。すると、海水は冷えると重くなるため、周囲の海水より下へ沈み込み、深海へ流れていきます。その後、その海水は深海を通って南へ戻っていきます。この循環が延々と繰り返されることで、AMOCは動き続けています。
しかし、ここに問題があります。地球温暖化が進むと、グリーンランドなどの氷が溶け、大量の淡水が北大西洋へ流れ込みます。淡水が増えると海水の塩分濃度が下がり、水が軽くなるため、これまでのように深海へ沈みにくくなります。すると、暖かい海水が北へ運ばれ、冷えて沈み込むというAMOCの循環そのものが弱まっていきます。そして極端な場合には、この循環が停止してしまう可能性があります。これが、AMOC崩壊と呼ばれているシナリオです。
AMOCが崩壊すると何が起きるのか

AMOC崩壊が起きると、まずヨーロッパへの熱の供給が止まります。その結果、ヨーロッパでは10年間で気温が3度以上下がると予測されています。これは、現在の地球温暖化よりはるかに速いペースで気候が変化することを意味します。その変化の速さは人間社会が適応できる限界を超えており、農業には壊滅的な被害が及ぶと考えられています。例えばイギリスでは耕作に適した土地が現在の3分の1以下にまで縮小するという試算もあります。
一方、アフリカや南アジアでは干ばつが深刻化し、インドのモンスーンの降水量は半減するとも予測されています。また、AMOCが弱体化すると、沖へ海水を引っ張っていた海流の力が失われ、海水が岸に寄りやすくなります。その結果、アメリカ東海岸では海面が急上昇し、高潮が内陸まで届きやすくなることで嵐の被害がより大きくなります。
さらに、AMOCの弱体化により海水の大規模な循環が止まると、表層の海水が深海へ二酸化炭素を運べなくなります。このように海洋が二酸化炭素を吸収する力を失った状態になると、温暖化がいっそう加速する悪循環が生じると懸念されています。
そしてひとたびAMOCが崩壊すると、その変化は数十年という短い時間で急速に進み、いったん崩壊した循環は事実上元に戻せない可能性があります。
ベーリング海峡とAMOCの意外な関係

ベーリング海峡はアラスカとロシアの間にある、平均水深50メートル、最大でも59メートルという浅い海峡です。ここを通って北太平洋の海水が北極海へ流れ込んでいます。この海水は塩分が低いため、北極海を経由して北大西洋に流れ込むと、前述の海水が沈む仕組みを邪魔してAMOCを弱める方向に働きます。このことから、ベーリング海峡を塞いで、この塩分の薄い海水の流れ込みを止めれば、AMOCの循環を強く保てるのではないかというアイデアが生まれたのです。
実際、過去の気候の研究でも、氷河期などベーリング海峡が自然に閉じていた時代には、AMOCが強かったことがわかっています。
ただし、話はそう単純ではなく、海峡を塞ぐと状況によってはむしろAMOCを弱めることもあります。そのため、今回の論文ではベーリング海峡の閉鎖が、どんな状態ならAMOCを安定させ、逆にどんな状態では崩壊を早めてしまうのかを詳しく調べています。
ベーリング海峡ダムとはどんなものか

研究者たちが提案するのは、ベーリング海峡を3つのダムで塞ぐという構造物です。これらのダムはロシア本土からビッグダイオミード島、ビッグダイオミード島からリトルダイオミード島、そしてリトルダイオミード島からアメリカ・アラスカまでの3区間で構成され、合計延長は約80kmになります。こんな巨大なものを作れるのかと思うかもしれませんが、各区間の長さは38km、4km、38kmで、最も長い区間でも、現存する世界最大の締切堤防である韓国のセマングム防波堤の33kmとほぼ同規模です。また、最大水深も59メートルであるため、セマングム防波堤の54メートルとほぼ変わりません。必要な材料の量もロッテルダム港の拡張工事の約3.5倍程度であり、現代の土木技術で十分実現可能な範囲と考えられています。
実験でわかったこと

研究者たちは気候モデルを使って、様々な条件でシミュレーションを行いました。まずわかったのは、タイミングがすべてだということです。AMOCがまだ十分に強いうちにダムを閉じると、ベーリング海峡を通って北極海へ流れ込んでいた塩分の薄い太平洋の海水が遮断されます。その結果、北大西洋の塩分が保たれ、海水が重くなって深海へしっかり沈み込めるようになります。これがAMOCの循環を強める方向に働くのです。
ところが、AMOCがすでにある程度弱ってしまった状態でダムを閉じると、話が変わってきます。海峡が開いているときは、AMOCが弱まると北極海の水位や流れが自然に変化して、北大西洋へ流れ込む淡水の量を自動的に減らす、いわば調整機能が働いています。ところがダムで塞いでしまうと、この自然な調整機能が失われます。
さらにAMOCがすでに弱っている状態では、海峡を閉じることで今度は北極からの海氷が北大西洋に多く流れ込むようになります。その海氷が海面を冷やして蒸発を抑え、結果的に北大西洋の塩分をかえって下げてしまうのです。塩分が下がれば海水は軽くなり、深海へ沈めなくなります。つまりAMOCはさらに弱まり、崩壊を早めてしまうのです。まとめると、ダムの効果はAMOCが強いときと弱いときとで正反対になります。強いうちに閉じれば助けになり、弱くなってから閉じれば逆に引導を渡すことになりかねません。
では、どのくらいまでにダムを建てればいいのでしょうか。シミュレーションによると、150年から250年以内であれば、まだ効果が期待できるとされています。逆に言えば、それ以上先送りにしてAMOCが手遅れなほど弱ってしまうと、ダムを建てても意味がないどころか、悪化させるリスクがあります。つまり、まだ猶予があるものの、無限ではないということです。
まとめと今後の課題

この研究の結論を一言でまとめると、AMOCがまだ十分強いうちに適切なタイミングでベーリング海峡をダムで閉じれば、二酸化炭素による大西洋海流の崩壊を防げる可能性があるということです。
ただし、研究者たちはいくつかの重要な注意点も指摘しています。今回使ったモデルの解像度は粗く、ベーリング海峡を流れる水の量も実際の観測値より一桁ほど小さく再現されています。また、淡水を人工的に加えるという実験設定も現実とはかけ離れた部分があります。そのため、数値の結果をそのまま現実に当てはめることはできません。
研究者たちが次のステップとして挙げているのは、より高解像度で現実に近い最先端の気候モデルで同じ実験を行うことです。そうすることで、本当に今の気候においてこのダムが有効かどうかをより正確に評価できます。
また、研究者たちは生態系への影響についても懸念を示しており、海峡を塞ぐことで太平洋と北極海の間の水・熱・栄養塩・海洋生物の交換が変わり、海洋生態系や地域の海洋循環に影響が出る可能性があると述べています。
またそれだけでなく、まだ十分に理解されていない気候変化をもたらす恐れもあり、これほど大規模な介入は、意図した効果と同時に意図せぬ結果についても慎重に検討する必要があると強調しています。ベーリング海峡の閉鎖は、ある条件下では崩壊を先送りにできるかもしれませんが、温暖化が続くことによる根本的なリスクは取り除けるわけではありません。
だからこそ論文の最後には、二酸化炭素の排出削減こそが本来望ましい選択肢であり、このダムはあくまで最後の手段として検討されるべきものだと明確に述べられています。
参考:https://www.annualreviews.org/content/journals/10.1146/annurev-marine-040324-024822


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