ある企業が、細菌に感染させた6,400万匹もの蚊をアメリカの野外に放つ計画を進めており、現在、アメリカ環境保護庁がその申請を審査しています。普通なら大問題になりそうな話ですが、科学者たちはこの計画をまったく懸念していません。むしろ合理的なアプローチだと前向きに評価しています。いったいなぜでしょうか。
この記事のポイント
- ボルバキア菌に感染したオスの蚊を大量放出することで、交尾後に子孫が生まれなくなる「細胞質不和合性」を利用して個体数を減らす仕組み
- 放出されるのは人を刺さないオスのみで、ボルバキアは自然界に広く存在する細菌であり、人間や哺乳類には感染しない
- シンガポールでの実用例では対象地域のデング熱感染リスクが70%以上低下しており、既に実績のある技術
計画の概要

この取り組みを進めているのは、Googleのグループ企業である医療・生命科学企業のヴェリリー社です。ヴェリリー社は「デバッグ」というプロジェクトを立ち上げ、実現に向けて動いています。
この企業が放とうとしているのは、ネッタイイエカと呼ばれる蚊です。もともと西アフリカまたは東南アジアを原産とするとされるこの蚊は、現在ではカリフォルニア州やフロリダ州を含むアメリカ南部にまで侵入し、広く定着しています。
この蚊が厄介なのは、複数の深刻な感染症を媒介する点です。中でもアメリカで最も問題となっているのがウエストナイルウイルスです。このウイルスに感染しても多くの場合は無症状ですが、発熱や頭痛などの症状が現れることがあり、一部では脳炎や髄膜炎など重篤な神経症状を引き起こし、死亡に至るケースもあります。2003年以降、カリフォルニア州だけで8,000人以上の感染者と400人を超える死亡者が報告されています。さらにウエストナイルウイルスだけでなく、セントルイス脳炎なども媒介しており、アメリカ南部ではこの蚊が主要な感染源となっています。
こうした背景から、ネッタイイエカの個体数を減らすことは、公衆衛生上の大きな課題となっています。そこでヴェリリー社が目をつけたのが、ボルバキア・ピピエンティス、通称ボルバキアという細菌です。トンボやチョウ、ハチなど、地球上の昆虫の約半数が自然にこの細菌を体内に持っているとされており、昆虫の世界では非常にありふれた存在として知られています。また、人間や哺乳類には感染せず、遺伝子組み換えとも無関係の、あくまで自然界に存在する細菌です。
計画では、このボルバキアに感染させたオスのネッタイイエカを、カリフォルニア州とフロリダ州にそれぞれ最大3,200万匹、合計最大6,400万匹を2年間にわたって放つ予定です。ではなぜ蚊の個体数を減らしたいはずなのに、わざわざ大量の蚊を野外に放つのでしょうか。一見すると矛盾しているようですが、これにはボルバキアという細菌が持つ特別な性質を利用した、巧妙な戦略が隠されています。
蚊を減らす仕組み

その鍵は「細胞質不和合性」という仕組みにあります。これは簡単にいうと、ボルバキアに感染したオスと感染していないメスが交尾すると、子どもが生まれなくなる現象です。ボルバキアに感染したオスは、精子に特殊な変化を起こします。このオスが感染していないメスと交尾すると、受精は起こるものの、受精卵は正常に発育できず途中で死んでしまいます。つまり、メスは卵を産んでも次の世代を残せないのです。
ヴェリリー社はこの性質を利用してボルバキアに感染したオスを大量に放出します。すると野生のメスは高い確率で感染オスと交尾するようになり、子孫を残せない個体が増えていきます。その状態を継続すると、世代を重ねるごとに新しく生まれてくる蚊の数が減り、最終的にはネッタイイエカ全体の個体数を大きく減らせるというわけです。
なお、放出するのはオスだけです。人を刺すのはメスだけで、オスは花の蜜や果物から栄養を得るため、人を刺しません。
ヴェリリー社はAIやセンサーを使ってオスとメスを自動で選別する機械も開発しており、大量のオスだけを効率よく放出できる体制を整えています。
安全性について

この計画の安全性について、科学者たちは概ね肯定的な見方をしています。カリフォルニア大学リバーサイド校のチャンドラセガラン助教は、ボルバキアを利用した手法を合理的な蚊の防除方法と評価しています。
この計画が比較的安全だと考えられている理由のひとつは、利用するボルバキアがもともと自然界に広く存在する細菌だからです。ボルバキアは昆虫の約半数が持っているともいわれており、人為的に作られたものや遺伝子組み換え生物ではありません。また、人間や哺乳類には感染しないことも知られています。さらに、放出されるのはオスの蚊だけです。人の血を吸うのは産卵に必要な栄養を得るためのメスだけで、オスは花の蜜などを食べて生活しています。そのため、この計画によって人を刺す蚊が増えるわけではありません。
ボルバキアは特に殺虫剤と比べたときの利点が大きいといいます。殺虫剤はミツバチなど受粉を担う昆虫にまで悪影響を与えるうえ、近年は蚊が耐性を獲得しつつあるという深刻な問題もあります。それに対し、ボルバキアを使った手法は特定の種のみを対象とするため、環境に新たな毒素をまき散らしません。そのためボルバキア蚊は、蚊の防除のための化学殺虫剤の使用を減らせる可能性があります。
生態系への影響についても、蚊を食べる魚・鳥・トンボなどのほとんどは広食性で他の昆虫も幅広く食べるため、ネッタイイエカが減っても食物連鎖が崩れる可能性は低いとされています。ただし生態系は複雑なため、ネッタイイエカが減った空白に別の蚊の種が入り込む可能性はゼロではなく、継続的なモニタリングが必要だとも指摘されています。
申請を受けたアメリカ環境保護庁は、人への健康影響や生態系への影響、他の生物への影響などについて提出されたデータを詳しく調査します。今回のような案件は地域だけでなく全米レベルで影響が及ぶ可能性があるとして、特に重要な案件として扱われており、専門家による審査に加え、一般市民からも広く意見を募集する手続きが行われました。アメリカ環境保護庁はこうした情報を総合的に検討したうえで最終的な判断を下しますが、もし人や環境への影響に問題があると判断された場合は許可を出さないこともできますし、追加の安全性データを求めたり、実施条件を厳しく設定したりすることもできます。このように、国の規制当局による厳しい安全性評価を通過して初めて実施できる仕組みになっています。
実際の成功例

実はこの手法、まったくの新しい試みではありません。フロリダ大学のカラガタ助教によれば、ボルバキアを使った個体数制御は2011年ごろから実用化されてきた技術です。
代表的な成功例として知られているのがシンガポールです。同国では長年、デング熱が深刻な公衆衛生上の課題となっており、政府はデング熱を媒介するネッタイシマカの個体数を減らすため、ボルバキアを利用した大規模な対策を進めてきました。方法は今回の計画とほぼ同じです。ボルバキアに感染したオスの蚊を継続的に放出し、野生のメスとの交尾によって子孫が生まれない状態を作り出します。これによって世代を重ねるごとに蚊の数を減らしていくのです。
この取り組みは研究施設の中だけで行われたものではありません。実際に人々が暮らす住宅地で長年にわたって実施され、その効果が詳しく調べられてきました。その結果、ボルバキアを放出した地域では、デング熱を媒介するネッタイシマカの個体数が大幅に減少しました。さらに重要なのは、蚊の数が減っただけではなく、住民がデング熱に感染するリスクも70%以上低下したことです。つまり、この方法は単に蚊を減らすだけでなく、人の感染症を減らす効果も実際に確認されたことになります。シンガポール政府は現在もこの取り組みを拡大しており、2026年末までに国内の80万世帯以上、全世帯のおよそ半数を対象地域とする計画を進めています。
まとめ

このように、今回アメリカで申請されている計画は、決して前例のない危険な実験ではありません。ボルバキアを利用して蚊の個体数を抑える手法や、不妊化したオスの蚊を使って害虫を減らすという考え方そのものは、長年にわたって研究と実用化が進められてきました。ヴェリリーの計画は、その技術をAIや自動化技術によって大規模化したものといえます。もちろん、生態系への影響については今後も慎重な監視が必要ですが、現時点では感染症対策の有力な選択肢のひとつとして期待されています。アメリカ環境保護庁がどのような判断を下すのか、そしてこの取り組みが今後の蚊対策をどのように変えていくのか、注目が集まっています。
Emerging Mosquito Control Technologies | US EPA
Wolbachia-Aedes Mosquito Suppression Strategy
Westnile.ca.gov | California West Nile Virus Website
Are Altered Mosquitoes a Public Health Project, or a Business? | MIT Technology Review


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