シカは日本だけでなく、世界中の多くの地域で見られ、古くから食用や皮革などに利用されてきました。それなのになぜ、シカは家畜化されることがなかったのでしょうか?
この記事は人類の歴史において、シカの家畜化を妨げてきたさまざまな生物学的理由や現実的な問題について説明しています。
家畜化の定義

まず、家畜化の定義についてお話しておきます。
家畜化とはヒトが動物の生殖を管理していく過程のことをいいます。その過程においてヒトは自らに有益な特徴を多く具える個体を群れの中から人為選択し続けるため、代を重ねることで遺伝子レベルでの好ましい変化が発現し、家畜化が成功します。
このように、家畜化は動物の遺伝子に変化が起きるため、動物を人間の存在に慣らす単純な過程である調教とは異なります。
そのため、奈良公園に生息するシカは非常に人に慣れているものの、決して家畜動物ではありません。
シカの家畜化の試み

歴史上、シカを家畜化する試みは数多くありましたが、イヌ、ウシ、ウマなどの他の家畜動物ほど成功した例はありません。
ギリシャ人などの初期の文明では、ダマジカの捕獲および飼育の試みがありましたが、短期間または数世代しか飼育できませんでした。
中世でも、ヨーロッパの貴族が狩猟用や食用として、公園でアカシカやニホンジカなどの鹿類を集めています。しかし、これらの半飼育個体群は家畜化の特性を示すほどに何世代にもわたって、一貫して繁殖させることができませんでした。
簡単に言うと、シカが家畜化されなかったのは、強い逃避本能と人間に対する警戒心、特殊な食性、決まった繁殖期などがあるためです。
シカを家畜化できなかった理由①強い逃避本能と人間に対する警戒心

まず、シカは強い逃避本能を持ちます。
彼らは視覚や聴覚が非常に発達しており、捕食者や他の危険を早期に察知し、速やかに逃げることができます。
例えば、シカは鋭い聴覚で周囲の音を察知し、不審な音や動きを感じた場合は警戒し、素早く走り出します。また、広い視野を持っているため、遠くから近づいてくる捕食者にも気付くことができます。
この逃避本能は彼らが自然界で生き延びるために非常に重要な役割を果たしているのです。
しかし、この特性のため、人間がシカを長い時間かけて飼い慣らすのはほぼ不可能でした。
シカが逃げないように柵に入れようとしても、優れたジャンプ力を持っているため、跳び越えていってしまいます。
また、シカは狭い囲いに入れらるとパニックを起こして自傷する傾向にあります。彼らは逃げようとしてサクにぶつかり、首を折ったり、その他の重傷を負ったりするのです。
そして、逃げることを優先するように進化したシカは、捕えられると過剰なアドレナリンを分泌し、激しい運動と極度のストレスのため捕獲性筋疾患と呼ばれる、命に関わる筋肉損傷を引き起こす可能性もあります。
このように、シカを飼育するには、非常に広くて高い柵のなかで、半放し飼い状態で飼育する必要がありますが、技術的な問題や費用がかかるため、これまで家畜動物としては不向きでした。
パニックに陥りやすいという点では家畜化されたヒツジも同じ条件ではありますが、ヒツジは群れをつくる習性がとりわけ強いため、ヒトや牧羊犬によって群れ全体を制御することが可能となっています。
群れを形成する動物には、個体間で序列を作り、自身よりも序列上位の個体の行動に倣う習性をもつ種ともたない種がいます。
ウシやウマ、ヒツジなどは前者の典型で群れのヒエラルキーの頂点にヒトを据えることで、コントロールが容易になります。
一方のシカは群れを作りますが、はっきりとした集団内の序列を作ることがありません。そのため、人間をリーダーとみなして従うことがなかったのです。
唯一、シカの仲間でトナカイだけが社交的で従順な態度を示すため、家畜化することができました。
シカを家畜化できなかった理由②特殊な食性

また、シカの家畜化にはエサの問題もあります。
多くの種類の食料を進んで食べ、また、生態ピラミッドの下位に位置する穀物や、ヒトが食べられないまぐさや牧草などを主食とする動物は、飼育に多くの出費を必要としないため、家畜化されやすい傾向にあります。
一方のシカは穀物や牧草だけで生き延びる適応能力がありません。彼らはより高品質の小枝や新芽を選ぶ草食動物です。
シカは反芻動物に含まれますが、ウシ、ヒツジ、ヤギに比べて吐き戻しや再咀嚼が少ないため、摂取した食物から栄養価をあまり得られません。彼らは穀物や牧草だけでは消化不良を起こしやすいのです。
シカはバランスの取れた栄養を得るために、季節を通じて多様な飼料の組み合わせを必要とします。そのため、彼らの好き嫌いの多い食習慣は、家畜化には適していませんでした。
一方のトナカイは人間とともに長距離を移動する過程で、厳しい気候のなか、地衣類などを食べて生き延びることができたため、家畜化が可能となりました。
シカを家畜化できなかった理由③決まった繁殖期ほか

一部の専門家は標的を絞った何世代にもわたる繁殖によって、シカの行動を変えることができると考えています。
特に強い逃避本能と人間に対する警戒心を持たない個体同士を交配させることによって、シカをおとなしい品種へと改良することができる可能性があります。
この技術はロシアのキツネの家畜化実験において効果的に使用されています。人間に対する恐怖心と攻撃性の低い個体を掛け合わせることによって、キツネは犬のような行動を示し始めました。
関連動画:キツネの家畜化実験
しかし、シカはキツネよりも逃走反応が根深いため、時間がかかる可能性があります。
また、シカの世代期間が長いことや、年に1回しか繁殖しない、季節的な発情行動を示すことから、おとなしい個体を繁殖するには何世代もかかるでしょう。
発展する養鹿産業

ただ、現代に入ってから、技術などの発達により、広大な敷地に高いフェンスを張るなどのことができるようになったため、養鹿産業が成立し始めています。
中国では東北地方を中心に漢方薬の原料である鹿茸(シカの角)の生産を主な目的とした養鹿業が1950年代から開始されています。
日本では80年代後半から90年代にかけて鹿牧場が続々と開設されました。しかし、多くの牧場が経営的に行き詰まったことと、牛のBSE(牛海綿状脳症)の影響も重なり、現在では商業的な養鹿場はほとんど見られなくなっています。
一方のオセアニアでは海外から導入したシカによる環境破壊などに対応するため、養鹿業が1970年代から発展してきました。特に、ニュージーランドではアカシカの肉を中心とした鹿茸などを含めた輸出産業が育っています。
今後、シカの様々な品種を見られる日が来るかもしれません。
この記事はYouTubeの動画でも見ることができます。
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