イタリアのヒグマ個体群が人を襲わない理由

動物

日本では近年、クマによる被害が深刻化していますが、その一方で、イタリアに生息するあるヒグマの集団では、よりおとなしい性質へと進化してきたことを示す興味深い研究結果が報告されました。ではなぜこのヒグマたちはおとなしくなったのでしょうか。本記事はこのおとなしいヒグマの進化に関する最新の研究をもとに、詳しく解説しています。

  • イタリア中部に生息するマルシカヒグマは、2000〜3000年前に他のヒグマから分離し孤立した集団で、現在約40〜60頭しか残っていない希少な個体群。長年の人間との近接生活の中で、攻撃的な個体が排除され、遺伝子レベルでおとなしい性質へと進化してきた。
  • ゲノム解析により、マルシカヒグマは攻撃性低下に関わる遺伝子に変異が見られることが判明。実際に人への攻撃事例は記録されておらず、北イタリアのアルプス地域のヒグマとは対照的に穏やかな行動を示す。
  • 小規模で孤立した集団のため近親交配のリスクがある一方、他地域からクマを導入すると穏やかな性質が失われる恐れがあり、保護と共存の方策は複雑な課題として残されている。日本のヒグマなど他地域には直接適用できない特殊な事例。

マルシカヒグマの歴史と特徴

Marco Tersigni, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

イタリア中部のアペニン山脈の周辺、とくにアブルッツォ州の国立公園を中心に、マルシカヒグマが生息しています。マルシカヒグマはヒグマの地域的な個体群であり、ヨーロッパにわずかに残る希少な存在です。彼らは畑や村が広がる地域の近くで、長いあいだ人間と距離の近い生活を続けてきました。

これまでの研究によると、この集団はおよそ2,000から3,000年前に他のヨーロッパのヒグマから分かれ、その後、ローマ時代以降は完全に孤立した状態で生き延びてきたと考えられています。その個体数は極めて少なく、最新の推定では約40から60頭程度とされています。個体数の減少や孤立を招いた主な要因には、森の伐採や農地開発による生息地の喪失に加え、毒殺、交通事故、そして密猟といった人間の活動が重なったことが挙げられます。

現在、マルシカヒグマはほかのヒグマの集団と比べて、はっきりとした形質の違いを示しています。体つきは全体的にやや小柄で、頭部や顔立ちにも独特の特徴が見られます。オスは平均で約217kgですが、メスはおよそ140kgと小柄で、性差がはっきりしています。さらに、前足と後ろ足の形状が異なっており、足跡や爪痕、毛の質、糞の色などにも、この集団特有の識別点が確認されています。

冬の過ごし方にも特徴があり、一般的なヒグマのように長期間眠り続けるのではなく、冬の間も時折目を覚まし、外の気配に反応するという断続的な冬眠を行います。そのため、春の活動再開も比較的スムーズで、冬の間も一定の警戒心を保っているのが特徴です。また、子グマの成長が非常に早く、生後わずか数か月で自立できるほどに育ち、母グマの脂肪分を多く含んだ乳を飲んで急速に成長します。母親と過ごす期間はおよそ1年ほどで、メスは3歳ごろには繁殖可能な年齢に達します。

そして、マルシカヒグマの最も興味深い特徴のひとつが、ヨーロッパや北米、アジアのヒグマと比べて攻撃性が低く、おとなしい振る舞いを見せることが多い点です。これは、この個体群を他のヒグマ集団と明確に区別する性質でもあります。

ゲノム研究とその発見

イタリアのフェラーラ大学を中心とした研究チームは、このクマの全遺伝子情報を詳細に解読し、スロバキアや北米に住む他のヒグマのデータと比較することで、この孤立した集団がどのように進化してきたかを明らかにしました。

解析の結果、マルシカヒグマは長年の孤立によって遺伝的な多様性が失われ、近親交配が非常に進んでいることが分かりました。しかし、最も注目すべき点は行動に関連する遺伝子の変化です。他の地域のヒグマと比べ、マルシカヒグマは攻撃性の低下に関わる特定の遺伝子に変異が見られました。これは、人間との接触が絶えなかった歴史の中で、人間に危害を加えるような攻撃的な個体が排除され、結果として気性の穏やかな個体だけが生き残ってきたことを示唆しています。つまり、マルシカヒグマのおとなしい性質は、人間活動という環境に適応するために遺伝子レベルで刻まれた、独自の進化の結果である可能性が高いのです。

事実、マルシカヒグマの集団については、過去に人への重大な攻撃や死亡事故が記録されていません。アブルッツォ国立公園を管理する団体が公開している情報でも、「これまでマルシカヒグマによる攻撃の事例は報告されていない」と明記されています。マルシカヒグマが人と遭遇した際の様子は、たいていの場合、すぐに逃げ去るか、少し距離をとって好奇心を見せる程度で、攻撃的な反応が観察された例はありません。

これに対して、北イタリアのアルプス地域のヒグマ集団では、再導入や自然回復によって数を増やし、登山者や住民との遭遇機会が多くなった結果、人が負傷したり、まれに死亡例を含む衝突が記録されています。とくにトレンティーノ地方では、ハイキングやレクリエーションの最中にヒグマによる攻撃が報告されており、ヒグマという動物が本来もつ潜在的な危険性と、地域によって異なる行動特性を示す一例として受けとめられています。

人間活動と野生動物の進化への影響

人間は長いあいだ、自分たちが暮らす環境をつくり変えてきており、その結果、生態系や生物多様性に大きな影響を及ぼしてきました。生息地の改変や資源の過剰利用といった人間の活動は、野生動物に最も大きな影響を与える要因のひとつで、しばしば個体数の減少や選択圧の変化を引き起こし、結果的に種の進化のあり方にも影響します。

そして、人間はこれまで、さまざまな野生動物を身近な存在へと変えてきました。オオカミはイヌに、ヤマネコはイエネコに、そして野生のヤギやヒツジも家畜として飼われるようになりました。こうした例は、人間が生きる時代において、自然や生き物の進化にどれほど大きな影響を与えてきたかを物語っています。

今回の研究で、クマのように荒々しい野生の象徴とされる動物でさえ、その影響から無縁ではないことがわかりました。しかし、クマの場合はイヌのように完全に家畜化されたわけではありません。おとなしく見えるとしても、依然として危険で、強い野生の本能をもつ大型動物であることに変わりはないのです。それでも、人のそばで長く暮らしてきた結果、衝突を避けやすい性質が少しずつ残ってきた可能性があります。

保護と共存の課題

Mykola Pokalyuk, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

ところが皮肉なことに、そのことが保護をより複雑にしています。小さく孤立した集団では近親交配のリスクが高まり、病気や問題のある形質が固定されやすくなります。だからといって、ほかの地域からクマを入れて血を混ぜればよい、という単純な話でもありません。もしこの集団だけがもつ、人と衝突しにくい特徴が薄れてしまえば、また別の問題が生まれるからです。

イタリアでは意図せずよりおとなしいクマを作り出すことができました。しかし、そのクマたちをこれからどう守り、どう共存していくのか、それはまだ簡単には答えが出ない課題のまま残されています。


参考:https://phys.org/news/2025-12-italian-villages-evolved-smaller-aggressive.html

Italy’s bears are showing genetic signs of domestication
Endangered Apennine brown bears have adapted to life near people with a predisposition toward less aggression.

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