現在、世界中に8種のクマが生息しており、日本では北海道にヒグマ、本州以南にはツキノワグマがそれぞれ分布しています。しかし、同じ島国のイギリスにはクマが生息していません。これはどうしてでしょうか?
イギリスにはかつてクマが生息していた
現在、1万8千頭のヒグマがロシアを除くヨーロッパの22カ国に生息し、その多くがルーマニアのカルパティア山脈に集中しています。また、ロシアでは10万頭のヒグマがいると考えられています。
実は元々、イギリスにもこのヒグマが生息していました。かつて英国全土にヒグマが広く分布し、イングランド南部のリボンからスコットランド北部のサザランドまでみられていたのです。7000年前には1万3,000頭のヒグマがシカやヘラジカ、バイソンなどを捕食していたと考えられています。
これはイギリスがヨーロッパとは陸続きで、ヨーロッパヒグマはイギリスに移動することが可能だったためです。
ヒグマの絶滅
しかし、約8,500年前の最後の氷河期の終わりにイギリスは大陸から切り離されたことで、ヒグマは隔離されてしまいます。
そして、氷河期が終わったことによる気候変動や人間の活動によりイギリスの環境は変化しました。鬱蒼と茂っていたイギリスの森林の多くは牧草地となっていたのです。
そのため、寒冷な気候の森林に適応していた動物たちは生存が危ぶまれます。6000年前にはイギリスのバイソンが滅んだので、ヒグマの重要だった食糧源が減少してしまいました。このような環境の変化に加え、人間による乱獲でヒグマは著しく減少し、希少種となっていました。
いつ頃ヒグマは絶滅したのか?
ヒグマは英国最大の肉食動物でしたが、野生動物としての歴史もあなたたち人間との関係も驚くほどほとんどわかっていません。これはイギリスにおけるヒグマを包括的に調査した例がこれまでなかったためで、いつ頃ヒグマが絶滅したかもよくわかっていませんでした。
そもそも過去に野生動物が存在していた時期を特定することは簡単ではありませんが、ヒグマの起源と移動を追跡するのは特に困難です。なぜなら、生体と毛皮の両方が長年にわたってヨーロッパ大陸との間で取引されていたからです。
ふたつのシナリオ
ノッティンガム大学の考古学者ハンナ・オレガン博士による最新の研究では、イギリスのヒグマが絶滅した原因が調査されました。Mammal Review誌に掲載されたこの研究でヒグマがいつ絶滅したかに加え、発掘された遺骸が在来種のものなのか、それとも外来種のものなのかを判断することにも焦点が当てられています。
イギリスで発見されたクマの遺骸は完全な骨格から孤立した指や爪まで様々で、さらに発見された場所も洞窟から人間の火葬場までと多岐にわたっています。
オレガン博士はクマの骨格と発見された場所・年代を測定し、絶滅の時期は不明瞭であり、ふたつのシナリオを検討すべきだという結論に至りました。ひとつは約3,000年以上前の新石器時代後期または青銅器時代で、もうひとつは1,500年前の中世初期です。
オレガン博士は氷河期以降の石器時代から中世後期までイングランドとスコットランドの85カ所でクマの痕跡を発見しました。これらの痕跡はスコットランド、ウェールズ、イーストミッドランズでは少なかったものの、ヨークシャー、ロンドンではより頻繁に見られました。このうちウェールズのデータは殆どありませんが、これはおそらく標本がまだ充分に分析されていないためです。
また、全体の個体数としては石器時代に減り始め、鉄器時代(およそ3200年前)にはきわめて少数にまで落ち込みました。第一のシナリオではクマはこの時期に絶滅しており、この頃以降に発見された遺骸は生きていたか死んでいたかにかかわらず輸入されたものであるということになります。
ただし、石器時代から青銅器時代にかけての放射性炭素年代測定には約4000年の空白があります。この空白の一部は考古学的な遺跡から見つかったもので埋められていますが、過去のヒグマの分布を確定するには更なる研究が必要です。
もうひとつのシナリオでは、ヨークシャー・デイルズの洞窟でヒグマの遺骸が発掘されていることから、ヒグマは中世初期、つまり西暦425年から594年の間に絶滅したとされるものです。
しかし、ヨークシャーの洞窟のクマがローマ人によってヨーロッパの他の地域からイギリスに持ち込まれたクマの子孫である可能性はわずかながらあります。イギリスが西暦43~410年のローマ時代に入ると、たくさんのクマの痕跡が見られるようになっています。しかし、これらは間違いなく在来ではなく、ヨーロッパ大陸から輸入されたものでした。
ローマ時代の博物館においてクマの体の一部が保存されており、ローマ人はクマを戦いや展示用大道芸、餌付けの娯楽の為に記入していました。
中世初期であるアングロサクソン時代には火葬用の壺の中からクマの爪が発見されています。また、ヴァイキング時代は墓標として使われていたホグバックと呼ばれる大きな彫刻が施されたクマが彫られていました。
これら石器時代、青銅器時代に続く鉄器時代と中世初期に発見された痕跡のほとんどは、人間の埋葬に関係しているとオレガン博士は述べています。当時の人々はクマを力などの特定の象徴と関連付けていた可能性があります。例えば、子供の墓で小さなクマの置物が発見されたことから、この置物は墓に埋葬された人々を守るためだったと考えられています。
中世の終わり(西暦1066年以降)、クマの存在を示す痕跡はロンドンのテムズ川南岸のクマを使った競技場とエディンバラにおいて、おそらく医学部で学生に教えるために保管されていたものが知られています。
20世紀に入ってもクマはイギリスに輸入され続け、ロンドン塔でも飼育されていました。当時、音楽に合わせてクマが躍る大道芸「ダンシング・ベア」は一般的な娯楽でした。また、20世紀初頭のイギリスでは抜け毛の治療薬としてクマの油が売られていました。
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まとめ
絶滅した時期のどちらのシナリオが真実であろうと、クマは芸術作品や墓石、博物館の標本を通じてイギリスの歴史に足跡を残してきました。イギリスでは何千年もの間、ヒグマは野生のものも飼育された者も含め、時代を超えてて人間と非常に密接な関係を築いてきたのです。
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