現在、オーストラリアの荒野には何百万頭ものヤギが生息しています。
これはもともと人間が連れてきた家畜が逃げ出して野生化したものです。
彼らは乾燥した土地でもたくましく生き延び、農地を荒らす害獣として問題になっています。
しかし、これだけヤギがいて十分な量の肉がとれるにもかかわらず、オーストラリアの人たちはほとんど食べていません。
いったいなぜ彼らはヤギを食べないのでしょうか。
本記事は野ヤギが増えすぎた結果、オーストラリアで深刻化している問題について紹介します。
この記事の要約
- 18世紀に入植者が家畜として持ち込んだものが逃げ出して野生化したオーストラリアの野ヤギは、草木を食べ尽くし、生態系を破壊している。
- オーストラリアでは羊や牛肉が主流で、ヤギ肉は骨が多く匂いが強いなどの理由から敬遠されている。調理が難しく、価格も高いため、一般的な食文化として定着していない。
- 国内消費は少ないが、オーストラリアは世界最大のヤギ肉輸出国となっている。
ヤギが持ち込まれた経緯

ヤギはオーストラリアに最初に持ち込まれた家畜のひとつです。
1787年にイギリスから派遣された「ファースト・フリート」と呼ばれる船団は、翌年、現在のシドニー湾に到着しました。
この船団とともに、19頭のヤギがオーストラリアに持ち込まれたのです。
こうして、植民地時代の初期には、入植者や鉱夫、鉄道労働者たちにミルクや肉を供給する目的で、ヤギがオーストラリアの各地に運ばれました。
1860年代には、オーストラリアの繊維産業のために、アジアからアンゴラ種やカシミヤ種のヤギが輸入されました。
アンゴラ種はモヘアという高級繊維を、カシミヤ種は柔らかく軽いカシミヤ毛を提供し、衣類や布製品の原料として利用されたのです。
当時は多くのヤギが半野生の状態で飼われていたり、農業がうまくいかなくなった際に意図的に放されたりしていました。
また、ヤギは脱走の名人で、柵を飛び越えたり、登ったりしてすぐに逃げ出してしまいます。
さらに、船が難破したときの非常食として島々に放されたヤギもいました。このような慣習がのちに壊滅的な結果をもたらすこととなったのです。
ヤギの驚異的な生命力

ヤギは過酷な環境を生き抜いてきた動物の子孫です。
現在のヤギは、イランのザグロス山脈にいた野生のベゾアール(パサン)が最初に家畜化されたのが始まりとされています。
ベゾアールは乾燥した岩山や寒暖差の激しい高地など、草も乏しい過酷な環境で生きてきました。
そのため、ヤギは食べ物にこだわりません。
羊や牛が平地の草を食べるのに対し、ヤギは険しい岩場や斜面に入り込み、なんでも食べます。
オーストラリアで野生化したヤギは、アカシアやユーカリの葉、樹皮、苦くて毒のある植物まで、他の草食動物が避けるものでも平気で食べてしまいます。
彼らは食べ物がなくなると、すぐに別のものに食性を切り替えることができるのです。
また、繁殖も旺盛で、一年中子どもを産むことができます。授乳中でも再び妊娠することがあり、一度に複数の子どもを産むこともあります。
野生化したヤギは非常に社交的で、移動する群れで暮らします。
水が豊富な時期には小さな分散したグループに分かれることが多いのですが、乾燥するとグループはどんどん大きくなります。
そのため、干ばつの時などには、500から800頭もの大群を作ることもあります。
その結果、現在では、野生化したヤギはオーストラリアのすべての州と準州にまで分布を広げています。
彼らの故郷であるトルコからパキスタンにかけての地域では、オオカミやヒョウ、クマ、そして我々人間によって個体数が自然に抑えられてきました。
しかし、オーストラリアにはこうした天敵となる動物がほとんどいません。
ディンゴが多く生息する地域ではヤギの数は少ないものの、ディンゴが生息しにくいクイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州、南オーストラリア州、西オーストラリア州の乾燥地や半乾燥地では、ヤギが多く見られます。
牧草地や生態系への影響

野生化したヤギは植生や土壌、在来動物に広範な影響を及ぼしています。
ヤギは羊や牛、カンガルーよりも幅広いものを食べるうえ、干ばつのような厳しい環境でも長く生き延びることができます。
そのため、草や低木を食べ尽くし、蹄で地面を踏み固めてしまい、乾燥時には風による土壌の飛散、雨の多い時期には水による土壌の流出や、急斜面での土砂崩れを引き起こすことがあります。
このような浸食の進行は、土壌や栄養分の喪失、土壌構造の変化を通じて生産性を低下させ、生物多様性に長期的な影響を与える可能性があります。
また、ヤギは既存の植物を食べたり若い苗の再生を妨げたりすることで多年生植物に影響を及ぼし、特に島嶼の生態系では生物多様性の損失を招くことが知られています。
在来動物への影響も深刻です。ヤギは食料や水、隠れ場所をめぐって直接競合し、また、生態系の構造変化を通じて間接的にも影響を与えます。
水源では他の動物を追い払うことが知られています。さらに、ヤギの糞や水中で分解された死体は水質の富栄養化を招き、淡水生物にも大きな影響を与える可能性があります。
特に、食性や生息地が重なるシマオイワワラビーなどの在来種には深刻な脅威となっており、高密度でヤギが生息していた地域では駆除した後も、ワラビーの個体数の回復が見られませんでした。
さらに、ヤギは口蹄疫などの病気をうつすおそれがあるため、家畜の病気を防ぐ管理が難しくなるという問題もあります。
ヤギによる生態系の破壊として有名な例が、グレートバリアリーフ南部のレディーエリオット島です。
1800年代後半、この島では鉱石採掘のために森林が伐採され、採掘終了後、クイーンズランド政府が遭難者の食料としてヤギを放しました。
ところが、そのヤギたちが島の植生を食い尽くし、再び植物が育たない状態になってしまったのです。
こうして20世紀半ばには、島全体の地表がサンゴの破片だけで覆われた荒れ地になってしまいました。その後、島を再び緑化するには、何十年もの努力が必要でした。
また、グレートバリアリーフを含め、20ヘクタール以上の離島のうち少なくとも38島に野ヤギが定着しています。
ちなみに日本でもヤギは食料や除草、家畜利用の目的で南西諸島や小笠原諸島、伊豆諸島などの離島に持ち込まれたものが、管理放棄によって野生化し、植生の消失・土壌流出・漁場汚染など深刻な生態系破壊を引き起こしています。
政府による対策

幸い、オーストラリアではこれまでに60以上の島でヤギが完全に駆除されました。
カンガルー島、バーニア島、ダーク・ハートグ島では、ヤギの除去により在来種が回復するという成功例もあります。再侵入の恐れが少ない島や半島では同様の成功が期待されています。
とはいえ、数十年にわたる管理努力にもかかわらず、オーストラリア本土での分布域はいまだに拡大を続けています。
野生化したヤギは1994年、国の環境法で「主要な脅威要因」として正式に認定され、深刻な環境問題として位置づけられました。
これを受けて、1998年と2008年に全国規模の対策計画が策定されました。しかし、その後の進展は遅く、2013年の政府の評価では、2008年の計画が十分な効果を上げられなかったことが明らかになりました。
ヤギは一般的な柵では阻止できず、制御不可能な害獣として、オーストラリアの広大な半乾燥地帯では牧草管理が事実上不可能になることもあります。
野ヤギの数は過去20年間にわたって増加し続けており、現在もその傾向が続いています。
生物多様性の価値が高い地域でさえ、長期的な駆除・管理のための資金が乏しいのが現状です。
オーストラリアの野ヤギの正確な現在の個体数は定かではありませんが、複数の資料がおよそ230万から260万頭程度と推定しています。
この野ヤギは年間、日本円にして約25億円の経済的損失をもたらしていると推定されています。
オーストラリア人がヤギを食べない理由

これほど個体数が増え、経済的な被害が続くなら、いっそ捕獲して食用にしてしまえばいいのではないかと考える人もいるでしょう。
しかし、実際に2020年代初頭の時点で、オーストラリア国内の消費は世界のヤギ肉生産のわずか0.4%にすぎませんでした。ではなぜこれほど大量にいるのに食べられていないのでしょうか。
現在、オーストラリアではヤギ肉はニッチな食材にとどまっています。
羊は当初から食肉資源として導入され、オーストラリアの主要な食肉文化を形成してきました。
ヤギも初期に持ち込まれ、どこでも育つため非常食としての役割が大きく、人口が少なく食料も不足していた当時は、重要なタンパク源としてほぼ消費されていました。
しかし現在では、肉用としては農場で飼育される牛や羊、豚が優先され、ヤギ肉はあまり一般的ではありません。
ヤギ肉は骨が多く、ラム肉に比べて風味が強く、独特の獣臭があります。
この風味を楽しむには、トマトやスパイスと一緒に長時間煮込むカレーやシチューのような調理法が適しています。
実際、南アジアや中東、アフリカなど、ヤギ肉が消費される地域では、骨や髄から風味を引き出す煮込み料理が主流です。
しかし現代のオーストラリアでは、骨なしで手軽に調理できる魚の切り身や鶏胸肉のような食材が好まれるため、骨付き肉であるヤギ肉には心理的な抵抗があります。
骨の周りを噛んだり骨髄から風味を抽出する習慣がなく、「肉より骨が多い」と損をしていると感じる人が多いため、日常的には避けられがちです。
加えて、ヤギ肉はジビエ肉としてのイメージも強く、日常の食卓に取り入れにくいという先入観もあります。
専門店では1キロあたり約25オーストラリアドル(2,500円)と、ラム肉や牛肉、鶏肉よりも高価であることも、失敗を避けたいという理由で調理を敬遠される要因となっています。
このように、心理的抵抗、価格の高さ、調理の難しさなどが重なり、オーストラリア人がヤギ肉をあまり食べない主な理由となっています。
ヤギ肉の輸出

その一方で、オーストラリアでは輸出用として野生化したヤギを捕獲し、食肉や副産物として販売しています。
国内ではほとんどヤギ肉が食べられていないにもかかわらず、オーストラリアは世界最大のヤギ肉輸出国となっているのです。
国内で消費されるヤギ肉の約95%が海外に送られており、主な輸出先はアメリカで、輸出量の平均60%を占めています。
また、アジア諸国にも大量に輸出されており、精肉だけでなく、生きたヤギやヤギの皮といった副産物も取引されています。
その輸出額は世界全体の約44%にあたり、およそ232億6,500万円にのぼります。
世界の多くの地域では、ヤギ肉は重要な食材として親しまれています。
南アジアのインドやパキスタンではカレーや煮込み料理、アフリカではスープやグリル、中東ではローストやケバブ、カリブ海諸国ではジャーク風のスパイス料理として、日常食や祝祭の中心となっています。
アメリカにはこれらの地域からの移民が多く、彼らの伝統料理にはヤギ肉が欠かせません。
そのため、一部のコミュニティでは必需品のような位置付けです。
アメリカ国内でもヤギは飼育されていますが、需要に対して十分な量が生産されておらず、特に都市部や特定の料理向けには安定供給のために輸入が必要です。
オーストラリアの野ヤギは広大な草原で育ち、赤身で柔らかい肉質を持つため、輸出用として安定した品質があります。
さらに、冷凍で輸出されることによって、量やタイミングも調整しやすいという利点があります。
しかし、この輸出ビジネスが逆にヤギの個体数が減らない原因にもなっています。
理由は、商業的な利益が優先されるからです。
1990年代以降、農家は野ヤギを食肉輸出用に狩猟することが認められましたが、これはかえって個体数を減らすよりも増やすインセンティブにつながることがあります。
たとえば、若い雌ヤギを再び野生に戻して繁殖させたり、群れが十分に大きくなるまで駆除を遅らせたりするケースもあるのです。
さらに、ヤギ肉の価格変動によって駆除の動機が左右されるため、商業的なアプローチだけでは長期的な管理が難しいのが現状です。
まとめ

このように、オーストラリアの野ヤギ問題は、単純な害獣駆除では解決できない複雑な課題です。
国内では食文化として定着せず、輸出ビジネスは個体数管理よりも利益を優先してしまう一方で、生態系への深刻な影響は年々広がり続けています。
かつて食料として持ち込まれたヤギたちが、今では制御不能な存在となり、オーストラリアの貴重な自然環境をおびやかしているのです。
この問題を解決するには、経済的利益と環境保護のバランスを取りながら、長期的な視点での管理体制を確立することが不可欠です。
ヤギの魅力を写真で楽しむ

この記事ではオーストラリアの野ヤギ問題について解説しましたが、本来ヤギは愛らしく魅力的な動物です。
ヤギの可愛らしさをもっと知りたい方には、こちらの写真集がおすすめです。
『ヤギ:フォトブック』(わたしたちの世界、ア・アレト 著)
一切のテキストを使わず、美しい写真だけでヤギの魅力を伝える感動的な一冊。
牧草地で飛び跳ねる元気な姿、角を振り回す勇ましい瞬間、仲間たちとの楽しいひとときなど、ヤギの自由奔放な魅力が詰まっています。
田舎の風景から山地まで、さまざまな環境で生活するヤギたちの姿を通して、人と共存する愉快な時間を視覚的に楽しめます。
動物愛好者、田舎暮らしに憧れる方、写真愛好家への贈り物にも最適です。
毛並みのふわふわ、愛らしい顔つき、活発な様子が写真を通してそのまま伝わり、牧場の賑やかな世界を新しい視点から感じることができるでしょう。
コメント