カナダ・ブリティッシュコロンビア州に広がるグレートベア・レインフォレストでは、サケの脳だけを食べるハイイロオオカミが確認されています。
まるでホラー映画のゾンビのような行動ですが、実はそこには彼らなりの合理的な理由があるのです。
本記事ではこの特殊な進化を遂げた沿岸性のオオカミについて解説しています。
この記事の要約
- カナダ・ブリティッシュコロンビア州の沿岸性オオカミは、サケ中毒という致命的な病気を避けるためサケの頭部のみを食べる独特の摂食行動を示す
- 沿岸性オオカミは優れた泳ぎ手で、最大85%を海洋由来の食物に依存している
- 先住民ヘイルツク族の伝統的知識と科学的研究の融合により、この沿岸性オオカミの新たな発見が続いている
頭部だけが残された謎の現象

グレートベア・レインフォレストの川辺では、頭を切り取られたサケが散乱しているのを目にすることがあります。これらの魚は頭部だけをかじり取られ、胴体はほとんど無傷のまま残されています。
こうした珍しい摂食行動は、キャンベル島西岸に位置する集落、ベラベラ周辺の海岸地域に棲むオオカミたちの間で進化してきたものなのです。
生存戦略としての選択的摂食
オオカミはこの地域に生息するクマよりも賢いといわれています。クマはサケを丸ごと食べるため、サナダムシに感染していることが多いのです。
オオカミがサケの頭だけを食べるのは、サケ中毒を避けるためではないかと考えられています。
サケ中毒とは何か

サケ中毒とはサケや繁殖のために川をさかのぼる遡河性の魚を、イエイヌを含むイヌ科の動物が食べたときにだけ発症する、とても危険な病気です。
原因となるのは、魚に寄生する「ナノフィエタス・サルミンコラ(Nanophyetus salmincola)」という小さな寄生虫で、この寄生虫がさらに「ネオリケッツィア・ヘルミントーエカ(Neorickettsia helminthoeca)」という細菌を保有している場合にのみ、病気を引き起こしてしまいます。
この病気は、特に北アメリカのカスケード山脈の西側で多く確認されています。
犬がこの病気にかかると、感染した魚を食べてからおよそ6日以内に、嘔吐や発熱、下痢といった症状が現れます。
さらに、食欲不振や脱力感、リンパ節の腫れ、そして脱水症状へと進行していきます。
もし治療を行わなければ、感染からわずか2週間以内に命を落としてしまうケースがほとんどです。実際、症状が出た犬のおよそ90%は、治療を受けなければ死亡するとされています。
しかし、この病気も早期に発見できれば治療は可能です。診断は糞便の検査や、腫れたリンパ節から細胞を採取して調べることで行われます。
治療は原因となる細菌を殺すための抗生物質と、寄生虫を駆除する薬を併用するのが一般的です。
ほとんどの犬は治療を始めてからおよそ2日で劇的に回復します。
脱水が進んでいる場合には、点滴による治療も行われます。
ただし、この病気の原因となる寄生虫や細菌は、カナダやアメリカの太平洋沿岸など、ごく限られた地域にしか分布していません。
ですから、日本で売られているサケや魚を食べても、犬がサケ中毒になる心配はほとんどないと考えて大丈夫です。
とはいえ、日本の魚にもアニサキスなど別の寄生虫がいることがあるので犬に生魚を与えるときは注意が必要です。
つまりサケ中毒は北米特有のリスクであり、寄生虫が主にサケの身や内臓に存在して頭にはほとんどいないことから、オオカミはそのリスクを回避するために頭だけを食べるようになったのではないかと考えられています。
科学研究の始まり

つい最近まで、科学者たちはこの沿岸性のオオカミについて多くを知りませんでした。
ポール・パケット氏は一流のオオカミ研究者であり、レインコースト自然保護財団の主任科学者を務めています。
この財団は1990年以来、ブリティッシュコロンビア州沿岸の土地や水域、そしてそこに生きる野生動物の保護に力を注いできました。
パケット氏によれば、これらのオオカミが特別な存在であることは、すでに1930年代に動物学者、イアン・マクタガート・カウアンによって発見されていました。
とはいえ、本格的な研究が始まったのは1998年になってからのことです。
さらに彼は、このオオカミが沿岸に暮らす先住民、ヘイルツク族にとって、決して新しい存在ではなかったことを強調しています。
先住民のオオカミに関する知識は、最も古い神話や伝承にまでさかのぼるからです。
先住民の知恵と現代科学の融合

科学者たちは今、オオカミを研究する際に、ヘイルツク族の知恵にも耳を傾けています。
ヘイルツク族はカナダ・ブリティッシュコロンビア州の中央沿岸部に暮らす先住民族で、数千年にわたってこの地に定住してきた歴史を持ち、海や森と深く結びついた文化を築いています。
科学者たちは科学的な知見と、何世代にもわたって受け継がれてきた先住民の知識を組み合わせることで、オオカミをより深く、そして正しく理解しようとしているのです。
驚異的な泳ぎの能力

こうして進められた研究によって、沿岸性のオオカミについて非常に興味深い事実が明らかになってきました。
まず、このオオカミは非常に速く、そして力強く泳ぐことができます。
ある日、科学者たちがボートで海を進んでいると、水中で何かが動くのを目にしました。
しかし、それがなんなのかはすぐには分かりませんでした。近づいてみると、なんと2頭のオオカミが海を泳いで渡っているところだったのです。
すぐにオオカミだと断定できなかったのは、彼らが体を水中に沈め、目や耳、鼻先だけを水面に出して、まるで忍び寄るように進んでいたからでした。
このオオカミはただの犬かきをしているわけではありません。
彼らは長距離を泳ぐことができ、沖合のグース島には少なくとも1つの群れがいます。この島はベラベラから約13キロ離れていますが、泳ぐ以外に移動手段はありません。
また、オオカミは定住しているわけではなく、多くは一年を通して島から島へと泳ぎ渡り、群島を移動します。
多様な食性と海洋への依存

彼らはサケを追うこともありますが、サケがいないときにも姿を現します。
なぜなら、この地域のオオカミは非常に多様な食性を持っているからです。
最近の研究では、彼らの食事の最大85%が海洋由来であることが分かっています。
ここでは単独のオオカミはアザラシやカワウソを捕らえ、群れは時折クジラの死骸を食べることもあります。さらに驚くべきことに、彼らは貝も食べます。
前足を使って砂の中のムール貝を掘り出し、力強い顎で殻を割って食べるのです。
そして、海洋由来の餌以外では、本土に生息する大型のハイイロオオカミと同様に、ヘラジカやオグロジカを狩って食べます。
遺伝的な違いの発見

レインコースト財団の多くの科学者にとって師であり、ヘイルツク族の長老でもあるチェスター・ローンウルフ・スター氏は、本土のオオカミと沿岸性のオオカミの間にいくつか重要な違いがあることを指摘しました。
これがきっかけとなり、沿岸性のオオカミは遺伝的に異なっているのではないか、という仮説が生まれたのです。
これは、環境の違いによって、同じ種が異なる生態を進化させた、自然の適応力を示す好例といえるでしょう。
文化的配慮と研究手法
一般的な群れの大きさは5、6頭程度ですが、正確な個体数を特定するのは非常に難しいことです。なぜなら、科学者たちは先住民たちと協力する中で、動物を尊重しなければならないからです。
ヘイルツク族にとって、オオカミは特別な存在です。
彼らはオオカミを単なる野生動物ではなく、親戚や家族のような存在としてみなしています。
口承伝統の中で、オオカミは狩猟や家族の絆、協力を象徴する動物であり、人間と深いつながりを持つ家族とされています。
そして、その家族を捕獲してタグを付けることは許されていません。
そこで、科学者たちはより多くのデータを集めるために、オオカミに負担をかけない方法に頼らざるを得ませんでした。
幸い、オオカミたちは毎日、研究に役立つ情報を自然のまま残してくれます。
それは、糞です。
糞便研究から得られた知見

研究者たちはまず、採取した糞をオーブンで数時間焼きました。
こうすることで、熱によって寄生虫や有害な細菌が死滅し、チームは滅菌されたサンプルを安全に扱えるようになります。
こうして10年以上にわたり7,000個もの糞便サンプルを分析した結果、科学者たちはオオカミの生態や生理について、はるかに明確な全体像を把握できるようになりました。
糞便はオオカミの遺伝子やホルモンレベル、体内の寄生虫や細菌の種類といった情報を明らかにしてくれます。
また、排泄物に混じった毛や骨の破片からは、彼らが何を捕食したのかの詳細も分かります。
さらに、糞便サンプルからはオオカミの行動範囲や生息地も分かり、位置情報を把握することができました。
そして何より重要なのは、糞便から得られるDNAです。DNA分析によって得られた情報は、沿岸性のオオカミは遺伝的に異なるという、長老スター氏が最初に示した見解を裏付けるものでした。
広がる生息域と歴史的背景

今日では、沿岸性のオオカミの生息域がアラスカ南部からバンクーバー島まで広範囲に及んでいることがわかっています。
かつて、オオカミは人間と並んで地球上で最も広く分布する陸上動物でした。
オオカミは先住民の物語の中で、生態系の重要な役割を担うキーストーン種として描かれ、文化においても中心的な存在であり続けています。
しかし、入植者の社会では、「大きくて悪いオオカミ」が物語の悪役として描かれました。
彼らはこの威厳ある動物を悪魔化し、追放し、さらに多くの場所で狩って間引き、絶滅寸前まで追い込みました。
現在直面する脅威

科学者たちは、沿岸性のオオカミが直面する最も重大な三つの脅威を指摘しています。
それは、産業伐採、気候変動、そしてトロフィーハンティングです。伐採は、オオカミとその獲物の両方の生息地である森林を破壊するため、明白に有害です。
特に皆伐は土壌を乱し、流出を増加させ、それがサケなどの海洋生物にも影響を及ぼします。
気候変動もまた影響を与え始めています。
獲物となる動物が、これまでとは異なる時期や数でその領域にやってくるようになったのです。
季節の始まりが変わることでタイミングがずれ、食物連鎖全体に波紋が広がっています。
そして最後の脅威、トロフィーハンティングは、観光や趣味目的で動物を狩る行為です。
個体数が少ない沿岸性のオオカミにとっては、このような狩猟は群れの維持や遺伝的多様性に大きな打撃となります。
保護の成功例

しかし、一方でいいニュースもあります。
それは、先住民による土地管理のもとで自然保護が実現していることです。
今日、ヘイルツク族の領域では、オオカミは伐採や狩猟の脅威からほぼ守られています。
なぜなら、この土地の55%が保護され、残りは生態系管理の下に置かれ、わずか11%だけが産業に開放されているからです。
先住民と協力して、レインコースト自然保護財団は狩猟を止めるための効果的なキャンペーンも展開しました。
2005年に資金集めを始めた財団は、グレートベア・レインフォレストとキトロペ自然保護区におけるすべての狩猟権を買い取り、38,800平方キロメートルに及ぶ広大な地域でのトロフィーハンティングを永久に終わらせたのです。
協力がもたらした希望
科学者と先住民の間の協力関係は、両者が力を合わせて自然保護に取り組むことで何が達成できるかを示す、素晴らしい事例です。
近年、沿岸性のオオカミの数は増加していると推定されています。
しかし、重要なのは単なる個体数だけではありません。
この生態系保護の成果は、オオカミたちの顔にも表れています。
ちょうど人間が年を重ねると白いあごひげが生えるように、オオカミの白い鼻先は成熟の証です。
今日、ヘイルツク族の領域で白い鼻先を持つ多くのオオカミが見られるという事実は、この海岸での彼らの長寿と繁栄を示す、美しく力強い証拠なのです。
オオカミについてもっと知るなら
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『オオカミと野生のイヌ』
著者: 近藤雄生 (著), 澤井聖一 (著), 菊水健史 (監修)
出版社: エクスナレッジ
発売日: 2018年7月31日
ページ数: 208ページ
オオカミに一番近いイヌは柴犬!オオカミとクマが恋人に!など、オオカミと野生イヌの驚くべき新事実を収録した必読の書籍です。
かつて自然の恐ろしさを象徴する生きものとして迫害されてきたオオカミや野生のイヌたち。
しかし、最新の研究により、人間を含めた生物と自然との共生において、彼らが大きな役割を果たしていることが明らかにされています。
本書では自然と共に生きる彼らの生態から知られざる一面まで、全編書き下ろしで詳細に紹介。大自然の中で暮らすオオカミや野生のイヌたちの姿を美しい写真と深い知識で描いています。
主な内容:
- ハイイロオオカミの生態と行動
- 海で暮らすハイイロオオカミ(本記事の沿岸性オオカミも含む)
- 世界各地のオオカミと野生イヌの種類
- 絶滅した日本のオオカミ
- オオカミの仲間たち(ディンゴ、コヨーテ、柴犬など)
自然観察図鑑としても、写真集としても、読み物としても楽しめる一冊です。
オオカミを知ることは、すなわち自然を知ること。本記事で興味を持たれた方には、ぜひ手に取っていただきたい書籍です。
この記事は動画でも見ることができます。
参考:
https://canadiangeographic.ca/articles/the-amazing-sea-wolves-of-the-great-bear-rainforest/

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