ソテツの危険性と奄美大島の歴史

生物

ソテツは南日本に自生する植物ですが、鑑賞用としても広く用いられ、学校や浜辺、海岸沿いなどでよく見かけます。しかし、ソテツは実は危険な植物であり、そのまま食べてはいけないことをご存じでしょうか?この記事はソテツが危険な理由について説明するとともに、そんな危険なソテツを利用してきた奄美大島の歴史について説明しています。

ソテツの基本情報

ソテツは裸子植物のソテツ目、ソテツ科、ソテツ属に属する常緑樹の一種です。幹の先に大きな葉が密生し、外観はヤシの木に似ていますが、系統的には全く異なります。ソテツ類はおよそ2億8000万年前から存在しており、中生代から形態的にほとんど変化していないため、「生きている化石」とも呼ばれています。

ソテツは九州南部から南西諸島、台湾、中国南部に分布します。南国らしい見た目や丈夫さ、環境適応能力の高さから、ソテツ類の中でも最も広く栽培されています。

ソテツの毒性と危険性

ソテツは梅雨時期に花を咲かせ、夏の終わりにはたくさんの実をつけます。しかし、ソテツの実を含め、全体に毒性成分である「サイカシン」が含まれています。どの部位を摂取しても、体内で分解されるとホルムアルデヒドが生成され、中毒症状を引き起こす可能性が非常に高くなります。

生のまま食べると、内出血や肝臓へのダメージを引き起こし、嘔吐、めまい、呼吸困難などの症状が現れ、最悪の場合、死に至ることもあります。さらに、発がん性物質も含まれているため、食用には適していない大変危険な有毒植物です。

奄美大島を救ったソテツ

このように危険なソテツですが、かつて奄美大島では食糧として活用されていました。奄美大島では、ソテツが風や日照りに強く、海岸沿いや岩場に多く自生しています。さらに、段々畑の境界にも植えられ、台風や大雨による土砂崩れ防止や防風林としても利用されてきました。

奄美の島民たちがソテツを食用として扱い始めたのは江戸時代のことです。当時、奄美大島は薩摩藩の支配下にあり、島民たちはサトウキビ栽培を強制され、それ以外の作物を育てることが禁じられていました。台風によるサトウキビの不作が続くと、島は飢饉に陥り、島民たちは飢えに苦しみました。

そのとき、代わりの食糧として利用されたのがソテツでした。ただし、毒抜きしなければ食べられないため、島民たちは試行錯誤を重ね、完全に毒を抜く方法を学びました。

ソテツの毒抜き方法

Nissy-KITAQCC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

ソテツには多くのデンプンが含まれており、サイカシンは水に溶けやすい性質があります。そのため、毒抜きをしたうえで、沈殿したデンプンを集め、団子や粉にして保存食としました。

島民たちが編み出した毒抜き方法は以下のようなものです。

  1. 幹回りの大きな木を選び、葉から下を切り落とす。
  2. 幹の茶色い皮を剥ぎ、適当な大きさに切り分ける。
  3. 天日干しした後、何度も水に晒し、1週間から10日間、布で包んで暗い場所で発酵させる。
  4. 黄色い麹が生えたら水洗いし、細かく砕いて再び水に晒し、柔らかくなるまで繰り返す。
  5. 沈殿したデンプンを天日干しし、完全に乾燥させる。

この全工程には約3週間かかります。毒抜きされたソテツ粉からは、うどん、クッキー、カステラ、お餅などを作ることができました。さらに、「シンガイ」と呼ばれるソテツの芯を使ったお粥は、島民にとても好まれていました。

沖縄の「ソテツ地獄」

一方で、ソテツは適切に処理しなければ危険な食べ物です。大正末期から昭和初期にかけての沖縄では、経済的困窮により多くの人々がソテツを常食せざるを得ない状況に追い込まれました。

沖縄では、第一次世界大戦後の不況や、砂糖価格の暴落による経済的打撃で生活が困窮し、十分な食糧を確保できなくなりました。このため、島民たちはソテツを食べるしかなかったのですが、毒抜き加工に不慣れだったために、中毒による死傷者が相次ぎました。この悲劇的な状況は「ソテツ地獄」と呼ばれています。

まとめ

ソテツは観賞用としてよく見られる植物ですが、非常に強い毒を持ち、そのまま食べることは危険です。しかし、奄美大島の人々は長年の知恵と工夫で毒抜きをし、食料として活用してきました。適切な処理をすれば食べられるものの、その過程は非常に手間がかかり、間違えば命を落とす危険もあります。

現在でも、ソテツは奄美大島の歴史と文化に深く根付いており、「命の恩人」として大切にされています。しかし、適切な処理が施されたもの以外は決して食べないようにしましょう。

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