シドニーの北西に広がるニューサウスウェールズ州の原生林地帯、ウォレマイ国立公園の奥深くには、ウォレミマツの群生地がひっそりと隠されています。この種が自生する正確な場所の座標は、現在もオーストラリア政府によって最高機密として厳重に管理されています。これを探そうとすると、30万ドルの罰金と最長2年の懲役刑が科される可能性があります。ウォレミマツは史上最も厳しい保護法のもとに置かれている、地球上で最も守られた木なのです。
本記事はウォレミマツがこれほど厳重な国家機密として守られている理由について説明しています。
この記事の要約
- 1994年の奇跡的な発見: 国立公園職員のデイヴィッド・ノーブル氏が、約200万年前に絶滅したと考えられていた古代の針葉樹ウォレミマツを発見。ジュラ紀まで遡る「生きた化石」で、恐竜時代から生き延びた極めて稀な樹木として「20世紀最大の植物学的発見」と称された。
- 厳重な保護と病原体との戦い: 野生個体がわずか100本程度しか存在せず、遺伝的多様性もほぼ失われているため、生息地の座標は最高機密として管理され、違反者には30万ドルの罰金と最長2年の懲役刑が科される。2005年には致命的な病原体フィトフトラ・シンナモミが侵入し、厳重な消毒と管理体制が敷かれている。
- 画期的な保全戦略の成功: 闇市場を防ぐため、オーストラリア政府は商業栽培を推進し、世界中で合法的に購入可能にした。2019年のブラックサマー火災では極秘の消防作戦で群生地を守り、現在は複数の秘密の場所でバックアップ個体群を育成するとともに、世界中の園芸家による市民科学プロジェクトとして保護活動が展開されている。
奇跡の発見

1994年9月10日、国立公園の職員だったデイヴィッド・ノーブル氏は、週末を利用してウォレマイ国立公園の奥深い峡谷を探検していました。そのとき彼は、一度も見たことのない木々の群生に目を奪われたのです。
それは、オーストラリアでよく見かけるユーカリでも、熱帯雨林の樹木でもありませんでした。これらの木々はまるでシダのような葉を持ち、まっすぐに幹を伸ばしていました。そして何よりも目を引いたのが、まるで泡立つチョコレートを凍らせたかのような、ダークブラウンで重厚な質感の樹皮でした。
公園職員として植物に詳しかったノーブル氏は、ニューサウスウェールズ州全域で何千もの在来種を見てきましたが、そんな彼でさえ、目の前のこの木はまったく見覚えのない、完全に未知の存在だったのです。好奇心に駆られた彼は慎重にいくつかのサンプルを採取し、調査のために持ち帰ることにしました。
驚くべき正体

公園の本部に戻ったノーブル氏は採取したサンプルを同僚たちに見せましたが、誰ひとりとしてその木を識別できる者はいませんでした。そのため、標本は最終的にシドニー王立植物園の植物学者のもとへ届けられました。そこで彼らは、自分たちが非常に貴重なものを目にしていることに気づきます。
調査の結果、専門家たちはこの木が単なる新種にとどまらず、まったく新しい属であるウォレミア属に属することを確認したのです。
ノーブル氏が発見したその木はナンヨウスギ科に属する古代の針葉樹で、かつて恐竜が地上を闊歩していた時代に、広大な森林を支配していた種の生き残りでした。化石記録からこの種は約200万年前に絶滅したと考えられていました。しかし、ジュラ紀まで遡る近縁種を持つこのウォレミマツは、人知れずひっそりと峡谷の奥で生き延びていたのです。これは、イチョウのように生きた化石と呼ばれる極めて稀な例です。
1994年12月、その発見が公表されると、世界中のメディアが一斉に報道しました。当時、王立植物園の園長だったキャリック・チェンバース氏は、この発見について「現代に生きる恐竜を見つけたようなもの」だと語りました。こうして報道では「恐竜の木」「20世紀最大の植物学的発見」などと称され、その名は一躍世界に知れ渡ることとなったのです。
保護のジレンマ

その後、野生の個体がわずか100本しか存在しないことが判明すると、世界中がこの発見を歓迎する一方で、オーストラリア当局はただちに難しい選択を迫られることになりました。それは、誰もが見たがる生物学的奇跡を、どのようにして保護すべきかという問題です。
そのため、発表からわずか数か月という非常に短い期間で、当局は正確な場所を完全に秘密にするという、植物保護において前例のない決定を下しました。こうして、生息地の座標は機密情報とされ、ごく一握りの研究者と公園管理者だけがその所在を知ることになったのです。
ただ、これは単なるお役所的な慎重さではありませんでした。初期の調査の段階で、この場所の状況がいかに脆いものかはすでに明らかになっていました。1995年の調査の時に、ヘリコプターのプロペラが誤ってウォレミマツの樹冠の一部に当たり、損傷を与えてしまっていたのです。善意のある専門家でさえ木を傷つけてしまう可能性があるのなら、その場所が公になれば深刻な事態になりかねません。
致命的な病原体の侵入

2005年末、研究者たちが定期的な健康調査をおこなっていた際、背筋が凍るような発見をしました。若い木の一部に衰退の兆候が見られたのです。葉は黄ばみ、樹冠はまばらになり、根も弱っていました。
検査の結果、フィトフトラ・シンナモミと呼ばれる水生菌が森に侵入していたことがわかりました。フィトフトラ・シンナモミは木の根を攻撃し、水分や栄養の吸収を妨げることで、木を枯死させ、植物群落全体を壊滅させる力を持っています。その破壊力からオーストラリアでは「生物学的ブルドーザー」と呼ばれています。
さらに問題だったのは、フィトフトラ・シンナモミが本来峡谷の生態系には存在せず、外部から持ち込まれたことです。些細なことに思えるかもしれませんが、これはこの絶滅危惧の木々にとって致命的な事態となりました。なぜなら、ウォレミマツはほぼ互いのクローンのような存在だからです。
遺伝解析によると、1万から2万6千年前にこの種は極端な個体数減少を経験し、遺伝的多様性をほぼ失ってしまったことが分かっています。現在のウォレミマツは氷期を生き延びた、わずか1から2本の子孫だったのです。この遺伝的な均一性は、新しい病原体に対してほとんど無防備であることを意味しています。
厳重なセキュリティ

この汚染事件は当局が実施してきたあらゆる厳重なセキュリティー対策が正しかったことを証明しました。善意の訪問者であっても、うっかりひとつの種を滅ぼしてしまう可能性があることが明らかになったのです。
そのため、現場での管理手続きはさらに厳しいものになりました。現在、立ち入りを許可されているわずかな人々は、峡谷に入る前にブーツや装備をアルコールで徹底的に消毒しなければなりません。さらには、研究者の中にはヘリコプターで移動する際に目隠しをされたと報告する人さえおり、これは地形の特徴を覚えて場所が特定されるのを防ぐためだといいます。
そして、これらの保護措置を支える法的枠組みも同じくらい厳格になりました。2005年、ニューサウスウェールズ州政府はウォレミマツの峡谷を、州の保全法に基づく重要生息地に指定しました。
しかし、こうした極端な対策は、自然を守ること自体が新たな問題を生むという矛盾を示しています。厳重に隠せば隠すほど、恐竜の時代から生きるこの古代の木を見たいという人々の欲望をかき立て、かえって病原体を運び込む危険を高めてしまうからです。
多くの人々は、自分たちは影響を与えることなく安全に訪問できると思っているでしょうが、実際には、わずか1グラムの汚染された土壌だけで、この木を絶滅させるには十分なのです。
画期的な保全戦略

自然保護活動家たちは木をただ隠すだけでは、かえって危険な闇市場を生み出しかねないことにすぐ気づきました。そして、ウォレミマツを本当に守るためには、彼らが抑えようとしていたまさに人間の欲望そのものを、むしろ活かすべきだと考えたのです。
実際これは、保護戦略の歴史における最も偉大な策のひとつとなりました。ウォレミマツの自生地へのアクセスを制限する代わりに、オーストラリア政府は世界市場にそれらを溢れさせることにしたのです。誰でも合法的にウォレミマツを購入できるのであれば、コレクターたちも、巨額の罰金や懲役刑のリスクを冒してまで野生から盗もうとはしないはずです。
2005年10月、シドニーで開催されたオークション「世紀の植物販売」では、野生から採取し、挿し木で育てられた292本の若いウォレミマツが出品されました。すると、世界中のバイヤーは古代の生きた証を手に入れようと熱心に競り合い、個別の落札額は数千ドルに達し、オークションの総売上は115万オーストラリアドル以上と予想をはるかに上回る結果となりました。中には、わずか15本の苗木のセットが149,000ドルで落札されるものもあり、1本あたりの平均価格は約4,000ドルと予想価格の3倍に達しました。これらの売上はすべてウォレミマツの保護活動に直接還元されました。
しかし、この世間を騒がせた世紀の植物は、2006年までにはオーストラリア、イギリス、アメリカの園芸店でも購入できるようになっていました。1本あたりの価格は50から100ドルほどで、裕福なコレクターだけでなく一般の園芸家でも手に入れられるようになったのです。かつて世界で最も希少だった木は、現在ではシドニーからシアトルまでの庭先で育つようになりました。日本でも各地の植物園などで見ることができ、東京ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンにも植栽されています。
ブラックサマーと新たな保護活動

2019年から2020年の夏はブラックサマーと呼ばれ、記録上最も壊滅的な火災シーズンとなりました。ニューサウスウェールズ州全域で500万ヘクタール以上の森林が焼失し、その面積は近畿地方よりも広いものでした。
2019年11月、シドニー北西のゴスパーズ山で火災が発生すると、数週間で火は巨大化し、進む先すべてを焼き尽くしました。そして、火災マップは秘密にされているウォレミマツの群生地に向かって火が迫っていることを示したのです。
この森は人間の立ち入りが制限されることで25年間生き延びてきましたが、火の接近により管理者たちは苦渋の決断を迫られました。こうして2019年12月下旬、極秘の作戦が始まりました。専門の消防隊がヘリコプターで谷に降り立ち、灌漑システムを設置し、火が迫る中でも森全体を水で覆い、木々と周囲の植生を濡らすことで、火災から守るための緩衝地帯を作ったのです。さらに航空散水機も投入され、数千リットルの水が群生地とその周辺に正確に投下されました。こうしてこの古代の樹木は、生物種保護史上、最も費用と技術を注ぎ込まれた消防作戦によって生き延びることができたのです。
ただ、この火災は100年に一度の異常といったようなものではなく、気候変動によってウォレミマツの生存条件が根本的に変わることを予告するものでした。この状況を受けて、保護活動は複数の秘密の場所に若いウォレミマツのバックアップ個体群を育てるという、次のステップに進むこととなったのです。
幸運なことに、ウォレミマツの大量栽培が可能になったことで、思いがけない副産物も生まれていました。何千もの家庭園芸家が偶然にも研究者のような役割を担い、ウォレミマツがさまざまな気候や土壌条件でどのように成長するのかを観察できるようになったのです。こうして、この取り組みは絶滅危惧種のための、世界規模の市民科学プロジェクトへと発展しました。
2023年、科学者たちは31か国に住む、1,500人以上のウォレミマツ栽培者を対象におこなった調査結果を発表しました。このデータにより、ウォレミマツが驚くほど適応力の高い樹木であることが明らかになりました。適切な降雨量のある温帯気候でよく育ち、予想以上に暑さや寒さに耐え、さまざまな土壌条件でも順調に成長することが分かったのです。
フランスのある栽培者は、ウォレミマツがわずか14年で8メートル以上に成長したと報告しました。また、スコットランドの庭園では、マイナス12度の低温にも耐えられることが確認されました。
この市民科学のデータのおかげで、科学者たちはウォレミマツが育つ最適な条件を知り、秘密の場所で若い木を育てて、元の森が災害にあったときに備えることができるようになりました。専門チームは慎重に選定した複数の植栽地に、数百本の若いウォレミマツを植えています。こうして、かつて誰にも見つからず孤立することによって生き延びてきた種は、今や完全に人間の介入に依存することになったのです。
現在の状況と未来

現在、野生のウォレミマツはいぜんとして危機的状況にあります。秘密の峡谷には成木45本、若木46本がかろうじて存在しており、2005年に科学者たちが警告したフィトフトラ・シンナモミは今も群生地に残っています。感染した樹木は定期的にリン酸塩処理や化学注射を受け、防御機能を高めながら病気の進行を遅らせています。
一方で、移植プログラムはオーストラリア史上最も野心的な野生復帰プロジェクトのひとつとして静かに拡大しています。現在、少なくとも3つの秘密の場所で若いウォレミマツの予備個体群が育成されており、各場所は元の峡谷との地質学的類似性を考慮して選ばれ、単一の大惨事で全てが失われないよう十分な距離が確保されています。
ウォレミマツの保護は生態学的な意味だけでなく文化的にも重要です。かつて植物学的好奇心の対象であったこの樹木は、今やオーストラリアの外交シンボルとして進化し、首相が外国の指導者に苗木を贈ることもあります。
それでも課題は依然として厳しいものです。気候モデルはオーストラリア南東部での深刻な干ばつや熱波を予測しており、今後数十年以内にウォレミマツの生育が困難になる可能性があります。
しかし、このウォレミマツの物語は、秘密の保護区域や移植プログラム、国際的な協力など、多彩な保護活動が奇跡的な成果を生むことを示す、貴重な例であるといえるでしょう。
参考:Meet The World’s Most ‘Safeguarded’ Tree—A Jurassic Survivor Thought Extinct Until 1994


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