今からおよそ10年前、西オーストラリアの手つかずの美しい海湾に、1万個ものコンクリートブロックが沈められました。一見すると環境破壊のようにも見えるこの光景ですが、実はこれが地球上でも屈指の農業工学プロジェクトの始まりだったのです。その取り組みのおかげで、当時は静かな海域だった場所が、今では世界中のグルメや投資家が注目する一大拠点へと変貌しました。さらに驚くべきことに、意外な高級品にまで取り組み始め、さらなる成功を収めているといいます。いったいその高級品とはなんなのでしょうか。本記事は海底に1万個のコンクリートブロックを沈めた画期的なプロジェクトの全貌をわかりやすく解説していきます。
- 西オーストラリアのフリンダーズ湾に1万個のコンクリート製人工リーフ「アビタット」を沈め、200万匹のグリーンリップアワビを自然の海藻だけで育てる「海の牧場」方式を世界で初めて確立した。
- この養殖法は天然に近い環境で育てることで高品質を保ちつつ、安定供給も実現しており、過剰漁獲やウイルス被害で危機に瀕していたアワビ産業の課題を解決した。
- 同社は2021年に社名をレアフーズ・オーストラリア社に変更し、養殖事業で培った海洋環境を活かして海底でワインを熟成させる新事業にも乗り出すなど、持続可能な形で多角化を進めている。
事業の発端

2000年代、アワビ漁を専門にしていたダイバーであり、水産養殖学も修めていたブラッド・アダムズ氏は、アワビ資源の減少を目の当たりにしていました。当時、オーストラリアではアワビ漁が天然資源に大きく依存しており、南オーストラリア州、ビクトリア州、西オーストラリア州、そしてタスマニア島沿岸では、ダイバーが海中に潜ってアワビを採取するのが一般的でした。グリーンリップアワビやブラックリップアワビといったオーストラリア産のアワビは高級食材として世界中へ輸出され、とくにアジア市場で高い需要を誇っています。
しかし、需要の増加にともなう過剰な漁獲によって、天然のアワビ資源は急速に減少していきました。さらに2000年代に入ると、ウイルスの発生によって一部の海域では大量死が起こり、漁業は一時停止を余儀なくされました。このように天然資源だけに依存した漁業は、高収益である一方で非常にリスクの高い産業です。また、気候変動や海水温の上昇も重なって、将来への不安が広がっていきました。こうした状況を背景に、オーストラリアでは安定した供給と資源保護を両立させるための、養殖技術の開発が求められるようになっていたのです。
海洋牧場事業

そこでアダムズ氏は、海底に人工リーフを設置してアワビを育てるという独自の仕組みを、10年以上かけて開発しました。彼が考案したのは、中が空洞になったコンクリート製の構造物を海中に沈め、そこをアワビの生息場所として活用する方法です。この構造物は「アビタット」と呼ばれ、これはabalone habitat(アワビの生息場所)を略した名称となっています。アビタットは1基あたり約900キログラムの重量があり、その表面積は12平方メートルにも及びます。この広い表面にはアワビが付着しやすく、1基で同時におよそ400匹のアワビを育てることができます。これは、年間の生産量に換算すると、1基あたり約20キログラムのアワビを生み出す計算です。
アダムズ氏が率いるオーシャン・グロウン・アバロニー社は、西オーストラリア州南西部、オーガスタのフリンダーズ湾内にある120ヘクタールの海域をリースし、養殖場の拠点としました。この海域はアワビの成育に適した気候と生態系を備えている一方で、本来アワビが生息するのに必要な岩礁が十分に発達していません。そのため、人工リーフを活用した養殖に最適な場所として選ばれたのです。
まず、400基のアビタットがダイバーによって指定された海中のポイントへ慎重に運ばれ、海底へと設置されました。ただ、設置後すぐにアワビを放すわけではなく、アビタットが海の環境に馴染むまで6から8週間そのままの状態で置かれました。この期間に、海水の流れや光の条件に応じてアビタットの表面に藻類が自然に定着し、アワビが生息しやすい環境が整っていくのです。十分に藻類が繁茂し、自然の岩礁に近い状態が形成されると、次の段階としてアワビの稚貝が放流されました。放流されたのは、パートナー企業で育てられたグリーンリップアワビの稚貝で、健康状態や大きさが管理された個体です。
グリーンリップアワビはオーストラリアを代表するアワビで、足のふちの色が緑であることが名前の由来となっています。ビクトリア州から西オーストラリア州にかけてのオーストラリア南部沿岸と、タスマニア島北部に分布し、水深10から30メートルほどの岩礁や海藻の茂る場所に生息します。殻の長さは最大で23センチに達し、オーストラリア産アワビの中でも最高級品として知られています。
グリーンリップアワビは柔らかい身質が特徴のアワビです。貝殻には厚みがあり、身は比較的外しやすい構造をしています。また、塩などで刺激しても身が過度に硬く締まりにくいとされています。味わいは自然な甘みと穏やかな旨みがあり、クセが少なくすっきりとした風味が感じられます。
この養殖場では、稚貝を放流してから市場サイズに育つまでの約2から3年間、外部から餌を持ち込むことはありません。アワビは生息地に自然に生える海藻を餌として育ち、環境そのものを活かした自給自足型の方法で養殖されています。このように、自然に近い環境で育つため、品質は天然物と同等と評価されています。
一方で養殖であることから、成長過程を把握しやすく、収穫時期を適切に選べるため、安全性と安定供給が可能です。これにより、天然漁では難しい均一な品質と安定した出荷量を実現し、国内外の市場へ安定的に流通できます。また、生息地に自生する海藻を餌としているため、湾の生態系が豊かになり、アオバダイ、ピンクスナッパー、ベラ、サムソンフィッシュなどの魚種も増加しています。このように、天然の環境をそのまま活かしながら、養殖の管理も両立していることから、この方式は「ocean-ranching(海の牧場)」と呼ばれています。これは国際的にも前例がなく、世界で初めて確立された取り組みです。
2014年以降、同社は海底に1万個のアビタットを設置できるまでに事業を拡大しました。そのサンゴ礁には200万匹のアワビが生息しています。近年は年間およそ80トン前後の収穫が続き、最も多い年には約90トンに達しており、生産体制が安定的に機能していることがうかがえます。
新たなる事業

オーシャン・グロウン・アバロニー社は2021年にレアフーズ・オーストラリア社へと社名を変更しました。これは養殖事業以外の分野にも取り組むためであり、その一つが海底でワインを熟成させる「オーシャン・セラリング」です。驚くべきことに、同社は現在、漁業から海底ワインの貯蔵へと事業を多角化しています。
海底ワインの貯蔵は、フランスなどの高級ワインメーカーによって先駆的に行われていました。海底でワインを熟成させる発想は、陸上のワインセラーでは再現できない自然環境を活かすところにあります。海の深い場所は一年を通して温度が安定しており、急激な温度変化による品質劣化が起こりにくい理想的な熟成環境です。さらに、絶え間なく続く海のうねりがボトルに微細な揺らぎを与え、ワインの成分が穏やかに混ざり合うことで、熟成を早める効果があるとされています。光が届かない暗闇、酸素の影響を受けにくい密閉された環境、そして静かに包み込む水圧といった条件が重なることで、陸上で熟成させたワインとは異なる、より複雑でまろやかな風味が生まれます。実際に、密閉容器に入れたワインを海底に12ヶ月置くと、同じ期間を陸上で過ごしたワインよりも深みのある味わいになると評価されています。海そのものを熟成庫として利用することで、自然がワインに独自の個性を与えてくれるのです。2022年には、限定300本の初回特別仕立てワインが、1本およそ220オーストラリアドルで販売されています。
ただし、アワビの養殖と海底でのワイン熟成は、求められる環境条件が必ずしも一致しているわけではありません。アワビには比較的安定した海底環境が適している一方で、海底熟成ワインでは潮流や揺らぎといった自然の変化が影響を与えるとされています。そのため、同じ海域を活用する取り組みであっても、両者をどのように両立させるかが課題になるという点が指摘されています。それでもレアフーズ・オーストラリア社は、持続可能な資源の利用を目指すと同時に、事業として成長するための挑戦を続けているのです。
参考:
A World First – Ocean Ranching – Rare Foods Australia
Western Australian seafood company creates world first abalone breakthrough – WAFIC
Aussie innovator creates unique abalone ‘reef ranch’ – Business Acumen
First wild abalone farm in Australia built on artificial reef – ABC News
Rare Foods Australia launches Ocean Cellared wines and expands abalone production – NewsnReleases
How the ocean is providing the next cellar for wines – Forbes Australia


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