乾燥地最強のラクダが北米の砂漠に定着できなかった理由

動物

ラクダは別名「The Ship of the Desert(砂漠の船)」とも呼ばれるように、乾燥した環境に適応した動物です。背中のこぶに脂肪を蓄えることで長期間の飢えや渇きに耐えることができ、降水量が少なく植生の乏しい地域でも生存できます。実際、19世紀にオーストラリアへ持ち込まれたラクダは、内陸部の乾燥地帯の気候や地形に適応し、放逐された個体を中心に野生化しました。現在では100万頭を超えるとされる、世界最大規模の野生ラクダ個体群が形成されています。

では、同じく広大な砂漠が広がるアメリカ西部ではどうだったのでしょうか。実はアメリカでも、かつて軍事・輸送目的でラクダが持ち込まれた歴史があります。乾燥したテキサスやニューメキシコ、カリフォルニアの平原は、環境的にはラクダに適しているように見えます。しかし、オーストラリアとは違い、アメリカではラクダは定着しませんでした。それではなぜ、同じような乾燥地で、片方は大繁殖し、もう片方は消えてしまったのでしょうか。

この記事の要約

  • 19世紀にアメリカ軍が輸送目的でラクダの導入を試みたが、南北戦争の勃発により計画は頓挫し、わずか10年で実験は終了した。
  • オーストラリアでは導入されたラクダが野生化して100万頭超の大群を形成した一方、アメリカでは導入数がわずか約70頭にとどまり「最小持続個体数」に達しなかったため、定着には至らなかった。
  • 野生化したラクダの一部はアメリカ南西部でしばらく生き延び、「赤毛の幽霊(Red Ghost)」などの伝説を残したが、1890年代には目撃情報も途絶え、その姿は砂漠から消えた。

ラクダとは

ラクダはラクダ属に属する動物の総称で、乾燥地環境に高度に適応した偶蹄類です。最大の特徴である背中のこぶには水ではなく脂肪が蓄えられており、これを代謝することでエネルギーと代謝水を得ることができます。そのため、長期間水が得られない過酷な環境でも生存することが可能です。さらに、体温を大きく変動させて発汗を抑える仕組みや、濃縮尿を排出する能力なども備えています。

ラクダは古くから家畜化され、乳や肉、毛、皮などを人々に提供してきました。また、乾燥地帯では荷物や人を運ぶ重要な輸送手段として広く利用されてきました。

現在、ラクダ属には3種が残っています。ヒトコブラクダは背中にこぶがひとつで、世界のラクダの大半を占め、中東や北アフリカの砂漠で多く見られます。

フタコブラクダは背中にこぶがふたつあり、中央アジアの乾燥地帯に生息しています。かつては家畜のフタコブラクダと野生の個体は同じ種と考えられていましたが、近年の研究により、野生のフタコブラクダは家畜のフタコブラクダとは別種であることが分かりました。野生種は現在では絶滅危惧種に指定されており、生息数は1,000頭未満と推定されています。日本語では家畜種と野生種を区別する呼び分けはなく、単にフタコブラクダとまとめて呼ばれることがほとんどです。


オーストラリアのラクダ

Dr Fiona J Walsh from Australia, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

このように、ラクダはもともとアジアとアフリカの乾燥地帯にしか自然分布していませんでしたが、19世紀中頃になると、主にヒトコブラクダが探検や輸送の目的で、人間によってオーストラリアに持ち込まれました。しかし、その後モーター輸送の普及などから多くが放たれたり逃げ出したりして、広大な乾燥地の中で繁殖を続けるようになりました。

その結果、現在ではオーストラリア内陸部に野生化したヒトコブラクダが世界で最も多く生息しており、その数は100万頭を超えると推定されています。これはアラビアやモンゴルといった伝統的な生息地をしのぐ規模だと報じられています。

オーストラリア北部や中央部の乾燥地では、これら野生化ラクダが水源や植生、インフラに大きな影響を与えていると報告されています。例えば、ラクダは植生の80%以上を食べてしまうことがあり、砂漠の植物や先住民が利用する食用植物にまで被害を及ぼしているという研究もあります。また、乾燥時には水を求めて集落や農場周辺に移動し、水道やフェンスを破壊するなど、人間との衝突も大きくなっています。

こうした状況を受けて、オーストラリア政府や州・テリトリー政府はラクダの個体数管理計画を立て、個体数を抑える取り組みを進めています。しかし、繁殖力の高さや広い分布域のため、管理は容易ではなく、個体数が再び増加に転じている地域も指摘されています。


アメリカのラクダ導入計画

一方、アメリカでラクダ導入が検討され始めたのは1843年のことでした。陸軍需品局のジョージ・H・クロスマン大尉が、西部の乾燥地帯での輸送手段としてラクダを活用できないかと提案したのが発端です。19世紀半ば、アメリカ合衆国が西部へと領土を広げる中で、彼はウマやラバでは対応できない環境があることを痛感しており、ラクダの軍事利用に可能性を見出していました。

アメリカ西部は現在のテキサス西部からニューメキシコ州、アリゾナ州を経て、内陸のカリフォルニア州に至るまで、乾燥地帯が帯のように広がっています。そこには数百キロ規模で砂漠や半砂漠、高原性の荒野が連続し、まばらな灌木と乾いた大地が地平線の彼方まで続いていたのです。

この構想はすぐに実現したわけではありませんでしたが、上院議員だったジェファーソン・デイビスが関心を示し、1853年に陸軍長官に就任すると、西部の新領土での輸送問題を理由に、ラクダの実験導入を議会に強く求めるようになりました。

1855年、ようやく3万ドルの予算が承認されると、陸軍のヘンリー・ウェイン少佐と海軍のデイビッド・D・ポーター中尉が地中海へ派遣されました。ウェインはヨーロッパ各地でラクダの軍事利用を調査し、ポーターは補給船で輸送任務を担当しました。彼らはチュニスやスミルナ、コンスタンティノープル、エジプトなどを巡り、良質な個体を選別して購入し、最終的に複数のラクダを確保するまでに至りました。

こうして1856年2月15日、補給船はアメリカへ向けて出航しました。船には合計33頭のラクダが積み込まれており、その大半はヒトコブラクダでしたが、寒冷地に適応したフタコブラクダや、両種の交雑個体も含まれていました。また、世話係として4人のアメリカ人のほか、トルコ人とアラブ人の飼育経験者も同行し、本格的な実験として準備が整えられていました。

しかし、航海は過酷なもので、荒天で船が大きく揺れると、滑りやすい甲板で転倒して脚を折る危険があったため、ポーター中尉は各ラクダにハーネスを装着し、ひざまずかせた状態で甲板に固定し、72時間ものあいだその姿勢のまま耐えさせたこともありました。航海中には子ラクダも6頭生まれましたが、生き残ったのは2頭だけでした。それでも最初の輸送は成功し、テキサスに到着した個体は概ね良好な状態を保っていました。

予算がまだ残っていたことから第二次輸送も実施され、荒れた海を越えてさらに多くのラクダが運ばれました。数頭を失いながらも、最終的に二度の輸送で集まったラクダはおよそ70頭に達していました。

1856年の夏、到着したラクダはすぐに輸送能力の試験に投入されました。比較的平坦な道だけでなく、山道やぬかるんだ地形でも行軍が行われ、ラクダは重い荷物を背負ったまま安定して移動できることを示しました。試験ではラクダはウマやラバよりも2倍の重さの荷物を運ぶことに成功し、砂漠の暑さにも耐え、水と食料の必要量も少なく、しかも短時間で長距離を移動することができたと報告されています。特に、荷車が通れない道や、ウマが疲労して立ち往生するような環境でも、ラクダはほとんど問題なく進み続けました。

こうした結果から、軍の輸送手段としてラクダは十分に実用的であると判断され、1856年の終わりには、陸軍長官デイビス自身がこの実験は成功だったと報告しています。1858年には、フランスの帝国動物馴化協会が、アメリカにおけるラクダ導入の成功を評価し、ウェイン少佐に金メダルを授与しているように、国外からも成功例として認められるようになっていました。そのため、さらに陸軍は、西部での有用性を確信し、1,000頭規模への拡大計画を議会に提案するにまで至っています。

一方で、1857年以降、一部のラクダがテキサス州のエルパソやバウイーの陸軍基地に送られましたが、陸軍の厩務員たちはラクダを嫌い、アラブ人やトルコ人の世話係は軽んじられたため、アメリカ人の厩務員や荷馬車管理者を実験に協力させるのは困難でした。また、ウマもラクダの臭いを嫌ったため、厩務員はラクダを厄介払いするために放してしまうこともありました。

それでも、南北戦争が始まる前の4年間、軍事輸送目的でラクダを使用する、いくつかの興味深い試みが成功を収めています。1857年から1861年にかけて、エドワード・F・ビール中尉は20頭のラクダを使って南西部の未知の地域を探検しました。彼はこの探検でラクダは十分に役に立ち、1頭のラクダは4頭の良質なラバに匹敵すると述べています。こうして、南北戦争が始まる1861年までに、政府所有のラクダは主に南西部のいくつかの拠点に分散して配属されていました。

しかし、戦争が始まると状況は一変し、ラクダは結局ほとんど使われないまま放置されました。その後、実験を強く推進していたデイビスが戦争省を去ったこと、戦争そのものが政府の関心を奪ったこと、さらに戦後には鉄道が急速に発展して輸送問題が解決されたことなどが重なり、ラクダは売却されることになります。入札はわずか3件で、1頭あたり5ドル、10ドル、31ドルという非常に安い価格で落札されました。売却されたほとんどのラクダはメキシコへ運ばれてサーカスなどで使われましたが、一部は逃げ出しました。こうして、1856年に始まったアメリカ陸軍のラクダ実験は、わずか10年で幕を閉じることになったのです。


なぜラクダは定着しなかったのか

逃げ出したラクダは一定期間の間、砂漠で生き延びていたことが知られています。実際に目撃情報が散発的に記録されており、1880年代にはニューメキシコ州やアリゾナ州で野生のラクダが見られたこともありました。若きダグラス・マッカーサーが1885年にフォート・セルデン近郊で目撃した話や、1887年には国境付近で2頭が確認された例などが知られています。

こうして野生化したラクダたちは、時には奇妙で恐ろしい伝説を生むこともありました。その最も有名な例が「赤毛の幽霊(Red Ghost)」です。1883年、アリゾナの荒野で「赤い毛の巨大な獣が現れた」という噂が広まりました。その怪物は体高9メートルもの巨体で2台の荷馬車をひっくり返した、あるいは女性を踏みつけた、さらにはハイイログマを丸ごと平らげたといった噂まで囁かれるようになりました。さらに不気味なことに、その背中には人間の骸骨が縛りつけられていたといわれています。

この伝説は10年ほど語り継がれましたが、1893年、ある農夫が自分の庭で草を食べている怪物を撃ち殺したことで終焉を迎えました。獣の正体はラクダで、体には革の帯が食い込み、深い傷になっていました。なぜ死体が括りつけられていたのかは今も謎のままですが、「水を求めて自分を縛りつけた探鉱者説」や「訓練中に暴走したラクダに置き去りにされた兵士説」など、さまざまな物語が語られています。

このように、確かにラクダは一定期間アメリカの大地で生き延びていました。ただ、逃げ出したラクダの数はごくわずかで、繁殖して持続可能な群れをつくるには到底足りませんでした。当時アメリカ南西部に導入されたラクダはおよそ70頭ほどにすぎず、「最小持続個体数」に達しなかったため、長期的に定着することはできなかったと考えられています。

これに対し、オーストラリアでは導入された個体数がはるかに多く、繁殖に十分な規模の集団が形成されていたため、野生下での定着が可能となりました。また、オーストラリアの乾燥地帯は広大で、捕食者が少なく、食料資源もラクダの生態に適していました。このように個体数の充足・環境適合性・捕食圧の低さが揃ったことで、オーストラリアでは野生化ラクダが持続的に生き延び、現在では大群が存在する状況となっています。

もし計画どおり1,000頭規模で導入されていれば、繁殖が進み、アメリカの乾燥地帯でも安定した野生群が成立していた可能性もあります。しかし、歴史的・社会的事情、特に南北戦争の勃発によってその機会は失われました。結果として、アメリカの乾燥地帯では野生化ラクダが定着せず、外来種による生態系への影響や競合が避けられたため、地域の生態系にはむしろ好ましい結果となったといえます。ただ、その記憶は、レッド・ゴーストなどの興味深い伝説として今も残り続けています。


参考:

HUMP,2,3,4: Marching into History with the U.S. Camel Corps. | Article | The United States Army

U.S. Army Camel Corps | Facts, Summary, & American Civil War | Britannica

Jefferson Davis’s Camel Experiment — PopSciM 74:141‑152

Guest Editorial: Managing the impacts of feral camels – Ninti One

The history of Old World camelids in the light of molecular genetics – PubMed

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